私生活

act2


「それじゃあさようなら。貴方もお元気で」
「何語?」
以上、最後の会話。

 おまえ何言ってんのか全然分かんねぇよ。
 …何度言われたか。会えば必ず。会ったのが大学4年の4月だから。
 天蓬は目の前に広げたノートの端に数字を並べた。いつもの癖だ。今吸ってる煙草が今日吸った91本めだから生まれてから吸い込んだ煙は274481本分。捲簾と2日に1回会ったとして400回は言われたか。
 なんで素直に言えねぇの。
 なんで中途半端なことしか言えねぇの。
 余計な口ならきくんじゃねえよ。

 天蓬は、無口なほうではなかった。
 基本的に本の虫で人付き合いは苦手だが、だからこそ、わりと愛想良く誰とでも平等に話した。
 思ったことをそのまま口から出す大人なんていない。本当は、どうしても口にしなければならない言葉なんて滅多にない。
 捲簾といるとだんだん言葉が減った。
 会話する必要がなかった。
 嘘をつくとすぐばれる。
 嘘と、口にするには汚すぎる感情を差し引いて、本当に言いたいことだけを。
 
 それだけを。
 
 
 
「失礼します」
 月曜日。教授は日の当たるソファーで煙草をふかしながら、天蓬の預けたレポートを繰っていた。
「座んなさい」
 いつも通り目も上げない。天蓬は自分のぶんの茶を淹れて、教授の向かいに腰掛けた。アークロイヤルの甘ったるい匂い。初めて自分に煙草を吸わせたのは教授だった。初めて酒を呑ませたのも教授だった。
 似てるな。似てる。微笑っても目が笑わないところ。だからたまに微笑うと吃驚した。喜ばせたくて。だから院に。
「読んだよ」
 目の前にぽんと紙の束が落ちてきた。
「赤入れておいたから、直して来週再提出」
「……」
「相変わらず大雑把だな。内容はまぁまぁだが綴りの間違いが酷い。勢い余って言い回しが全部断定口調だ。ついでに悪筆。どんなにいい事考えててもいい表現しなきゃ伝わらんぞ」
「…すいません」
「それからこっちが修士課程入試要項。願書は俺のとこに……聞いてるか?」
 数秒かかって天蓬は視線を上げた。
「…はい?」
「疲れてるなら帰って寝ろ」
 修士課程入試。
 大学院への進学希望を、天蓬は2年の時にもう教授に伝えていた。滅多に希望者のいない哲学科、教授の喜びようといったらなかった。難関だ。英語ドイツ語フランス語ラテン語読解。内容は宗教にも芸術にも歴史にも倫理にも経済にも法学にも文学にも論理学にも及ぶ。一般企業の就職に有利になることは、まずない。この学科で院に行くということは、9割方大学教授になるということだ。そうなる気だった。先週の土曜日のあの時間まで。あの男を見るまで。
 …今更、何で。
「天蓬、どうした」
 天蓬が口を開く前に、凄い勢いで扉が開いた。
「伯父貴、スーツかしてスーツ!靴も!」
 ギラギラ光るスタジャンにメットを抱えた捲簾は、部屋の真ん中まで来てから天蓬に気付き、眉を顰めた。
「何あんた、また来てんの。伯父貴に愛想つかしたんじゃなかったっけ」
 一瞬血の気がひくかと思ったこの台詞は、幸い次の台詞とかぶった。
「ノックぐらいしろと何度も言っただろうが!」
「時間ねーのよ、いっきなり面接入っちゃって、くだけた会社なら個性で押すけど金融でこれじゃ流石にちょっと」
 教授はまだあれこれ騒ぐ捲簾を隣の部屋に押し込んだ。
「2着あるから好きなの着ろ。一番右のは喪服だからな。汚すなよ。今日中に返せよ。直接シャツ着るなよ」
「あーネクタイそれがいい」
 教授は舌打ちして自分のネクタイをむしりとると、部屋の中に投げ込んで戸を閉めた。
「悪かった五月蠅くて。あいつがおまえと同い年なんて信じられん。君の親御さんは幸せ者だな」
 充分幸せそうに言われても笑えない。
 …これは何だろう。自分で自分の感情の説明がつかない。えーと。
「…院進学なんですけど、ちょっと考えさせてもらえませんか」
 この飛行機は落ちてますとアナウンスされた乗客のような顔で30秒ばかり静止した教授は、ふっと肩の力を抜いた。
「……天蓬。今更」
「申し訳ありません。本当に今更なんですけど」
「あせったか?」
 何を言われたか分からず、天蓬は瞬きした。
「就職活動でスーツ着た学生がうろちょろし出すと、院希望の奴がよく悩み出す。同級生に置いてかれる気がするんじゃないのか」
「…そんな事では」
「まあいいよ。おまえの将来のことだ。よく考えろ」
 天蓬は、もう一度すいませんと頭を下げて部屋を出た。
 このまま放っておく訳にはいかない。理由があるはずだ、理由が。心変わりの理由が。憧れの教授が甥に甘い伯父だったというだけで自分の人生設計を突然ひっくり返すなんて正気の沙汰じゃない。何か、納得いく理屈をつけないと。
 本来なら生徒はエレベーターの使用は禁じられているのだが、天蓬は教授の準備室がある4階の、下のボタンを何の躊躇いもなく掌でぼんと叩いた。昔から、何かひとつの事を考え出すと周囲のものが見えなくなり聞こえなくなる。来たエレベーターに乗って、閉のボタンを押して、扉が閉まってからやっと後ろにいる捲簾に気付いた。
「わあ!」
「何だよ」
 捲簾はネクタイの長さを調節するのに夢中らしく、こちらをちらとも見ない。
「…なんてこと言うんです」
「何が」
「さっきですよ。愛想つかしたとか何とか」
「違うのかよ」
「違わなくても言うもんじゃないでしょう普通」
「普通って何」
 どうやらこの甥は今日はご機嫌斜めらしい。先週はこちらがヤツ当たった手前強くも出られず、天蓬が諦めた頃に軽い震動がきて扉が開いた。
「先週は失礼しました。体育の実技、一緒でしたね」
 聞こえなくてもよかったのだが、急ぎ足でもう2,3メートル先へ行っていた捲簾は、その場でくるっと振り返った。
 教授と同じ服で、同じ廊下で、似た顔で、似た声で、別の男。
「ご無沙汰してました。お元気そうで」
「あんたも4年もよくもまぁまったくお変わり無く」
 流石にこの言い草は、日頃自他共に認める温厚な天蓬でもむかっときた。
「…何が言いたいんです」
 言った時には捲簾はさっきの場所からまた数メートル先に移動しており、今度は振り返りもしなかった。
「あんたすっげー変」
 何か手に持っていたら、間違いなく、それが何であろうと、投げつけた。


「…ろくに知らない男に、前置きもなしに変だって言われたことありますか八戒」
「ないですねぇ」
「僕の何がどう変なんです」
「僕はそんなこと思ってませんよ」
 おそらく自分が院に行かないとなったら、教授は八戒を狙うだろう。
 既に図書館の主と化した一学年上の先輩を見かけてつい声をかけてしまった八戒は、既に一時間も天蓬の絡みに付き合っていた。わりと楽しく。
「貴方みたいに本に夢中になって三日も四日も顔洗わないうえ何故か顔がつっぱるんですよとか言い出しても、僕は全然変だと思いませんけど、変だと思う人には変でしょうね」
 天蓬は煙草の煙を力無く吐き出した。
「…変か変じゃないかが問題じゃないんです、普通言わないでしょう、そんなこと。真顔で。失礼な」
 図書館は全館禁煙なので、天蓬はいつも最上階の隅の隅の隅の窓の下に座り込む。八戒は日暮れの薄闇も塗り替えるほど白く濁ってきた空気を手で掻き回した。
「天蓬」
「何です」
「僕は男性とおつき合いしてますが変だと思いますか」
「全然」
 気遣いや迷いの欠片もない即答に、八戒は思わず微笑んだ。この厄介な先輩は、ただの癖なのだろうが、自分がこうと言ったら世界はこうであるといわんばかりの断定口調で話す。単なる自信過剰にしては頭がきれすぎ筋が通りすぎているので、周囲はスタンスに困る。尊敬もするし憧れもするし、穏やかな口調で滅多切りにされるのは怖いしで。
「でも変だと思う人のほうが多いですよ。多数決では変だと思わない貴方のほうが変です。でも僕は貴方のほうが好きです」
「…訳が分からない」
「ところで僕、そろそろおいとましていいでしょうか、待ち合わせしてるんで」
 天蓬が返事する前に、八戒は頭を下げてUターンした。
「…八戒!」
 呼ばれた八戒は階段の途中で立ち止まり、手摺りから身を乗りだした天蓬を見上げた。
「落ちますよ」
「貴方、院進学考えてますか。そろそろお誘いが来ますよ」
 八戒が教授に口説かれる図は想像するだけでも辛い。しかし昼間のあの落胆ぶりを見ると誰かに教授の夢を叶えて欲しい気もする。
 …駄目だ。今晩は徹夜だ。とにかく理屈さえ通れば自分を納得させられる。
 八戒はちょっと間をおいた。
「まだ決めてません」
 初めて自分より年下の男を羨ましく思った。1年も猶予がある。


一晩かけて自分の内面を探求すべく下宿に戻る途中、また捲簾と会った。正確には見た。
彼はとっぷり日が暮れた住宅街の電信柱に女の背中を押しつけての濃厚ラブシーンの真っ最中で、天蓬はそこが帰り道であるという理由でまったく躊躇いもせず近づいた。捲簾は女を抱いたまま、片目を開けた。
「待ってろ」
「は?」
「そこで待ってろ。すぐ済む」
 …世間一般の男は、こういう場合、大人しく向かいの電信柱に凭れて一服しながら一区切りつくのを待つ、というようなことをしないだろうが。
 天蓬は煙を吐き出すと、「すぐ済」ませた捲簾が女に手を上げ道路を横切って来るのを見ながら、まだ長い吸い殻を踵で潰した。
 理屈は差し引いてふたつの事がはっきりした。
 自分は今、何故だか知らないが捲簾を殴りたくてうずうずしている、ということ。
 これも何故だか知らないが、向こうも、そうである、ということ。

 

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