私生活
act3
捲簾と天蓬はてくてくと一筋入った公園のベンチに座り、並んで缶コーヒーを啜った。
「なーんかいつまでも冷えるよなぁ」
「ですねぇ。桜が長く保ったのはいいんですけど」
4月に入って10日も経つのに吐く息がまだ白い。5分ばかりそうやって当たり障りのない事を話した後、準備は終わったとばかりに捲簾は何度か足下の土を蹴り上げて立ち上がった。
「さてと」
捲簾は口で、天蓬は心の中で同じ事を呟いた。冷静に冷静に。
小さな児童公園には1本外灯があるだけだ。その脇のゴミ箱に空き缶を放り込むと、捲簾はガシャンとブランコの鎖を掴んで振り返った。
「院行くのやめたのか。泣いてたぜ叔父貴」
「貴方に関係ないです」
「うーわ何言ってんのこの人。やっぱ変」
天蓬は爪でコーヒー缶を弾いた。単に一拍稼ぐためだ。怒るのも殴るのも後だ。
「…僕のどこが変なんでしょうか」
「あんたのこと1年の時からよっく知ってんぜ?叔父貴追っかけまわして家にまで押し掛けてよ。教授は僕の憧れなんです、教授みたいになりたいんですってうるせーうるせーそんな精神不健康な18歳普通いるかよ。50前のオヤジに熱あげて変態じゃねえの?それかファザコン?」
30秒ばかり、天蓬は口を半開きにしたまま静止した。
何?
「…正気ですか?」
「あーあー自覚ない奴はこれだからこえーわ。あんたは叔父貴に惚れてて、あれが未来の自分だと思ってたんだろ。そこそこ美人で理解ある奥さんがいて悠々自適に好きなことして本の虫で、世間知らずで偏屈でルックスは俺に似てまあまあ男前の大学教授。…にあんたはベタ惚れてて夢見てて」
「ちょっと」
「4年かかって教授の一番になったつもりでいたら俺みたく勉学熱心な訳でもねー甥っこを猫かわいがりしてんの見たもんだからショック受けて、失恋の痛手に耐えかねて大学から逃げよって訳だ。プライド高いもんな、あんた。たかだか体育の試合にマジになって、俺に負けた時も顔は笑ってっけどこめかみ青筋浮いててよ。そんでお返しに院はやめた〜とかごねてみて叔父貴が引き留めてくれんの待ってんだろ。あー引き留めると思うぜ。あいつ人がいいから」
天蓬は2,3度深呼吸して、顔を上げた。
その途端脳味噌が揺れて頭蓋骨の内側にガンとぶつかった音がした。…したと言ったらした。
「…違いますよ」
「そうですよ。俺が叔父貴と喋ってる時のあんたの目、もーこえーこえー。やだね男の嫉妬って」
「違います。僕は、だって教授にそんな」
「違わないー」
捲簾はブランコを立ち漕ぎしながら歌うように言った。
「あんた世界で一番好きなの誰。叔父貴だろ?それ愛じゃねえの?触りたいとか寝たいとかそーゆーのだけが愛じゃねえだろうが。そりゃ負けず嫌いのあんたのことだから?叔父貴がいようがいまいが一生懸命勉強はしただろうけど?あんた1年の途中で心理学から哲学に専攻替えたらしーじゃん。般教で一目惚れ?でなきゃ何でいきなりこの時期に決意を翻す訳?もう去年から青田買い始まってんのに就職今から間に合うと思ってんの?叔父貴に聞かれてまいったぜーおまえ天蓬となんかあったのか、おまえに会ってから天蓬が変だって。天ちゃんは俺に妬いてるんですーなんて言えませんよっと」
一回転するんじゃないかと思うほど高く上がったブランコから、捲簾は易々と飛び降りた。
「よお天蓬。俺のこと嫌いだろ。俺もおまえのこと大っ嫌い」
耳障りな鎖の音がいつまでも鳴りやまない。もうとっくにブランコは止まったのに。
ベンチに座ったまま微動だにしない天蓬の身体の右側ギリギリに、捲簾はガンと片足をのせた。
「さ、はっきりした。清々しいなぁおい。ひさびさ殴りあっとく?」
…何か。
…言わないと、な。
「…顔に傷つけたら貴方の就職活動に差し障ります、し」
言い終わる前に、捲簾は額と額がくっつくほど近づけていた顔を凄い勢いで離した。
「悪い」
「…は?」
「悪い。ごめん。言い過ぎた」
…変な男。…変な感じ。
気分いいような悪いような。痛いようなすっきりしたような。
…ああ、そうか。そうかもな。そうだったのか。一晩かけることもなかった。簡単だ。
愛ね。愛。これが。手の中の缶が、まだ仄かに温かい。
「…愛、ねぇ…」
「おい天蓬」
おっと声に出た。
何秒か何分か完全に存在を失念していた捲簾が、足下にしゃがんで頬杖をつき、今度は下から天蓬の顔を見上げていた。普段ろくに人の顔を見ずに話す癖に見るとなったら真正面から凝視する。もう似てるところしか見えない。敵うわけない。
「…いいですよもう。負けました」
捲簾はまだ目をそらさない。
「まだなんか用ですか。正直貴方と見つめ合ってたくないんですけど」
「送ってく」
…もう勘弁してくれ。
人を叩きのめした一秒後にあやまったと思ったら今度は何だ。早すぎてついていけない。何だっていきなり現れて次々いちいち吃驚させるようなことを言ってやって掻き回す。
「…目の前で猛スピードでバラバラページ繰られても読めないんですよ」
「訳わかんね。家どこ。立てる?」
「立てるってどう…」
…立てない。
「…あれ?」
「あーもー悪かったよ無理矢理喧嘩売って。殴っていいぜ。ほら殴れ」
捲簾はまだ天蓬が右手に握りしめていた空き缶をもぎ取ってゴミ箱に放り投げ、その手を自分の頬にぱちんと当てた。
「だから泣くな」
鎖の音が止んだ。
「…何だかこの3日で軽く2,3年ぶんは済ませた気がしますよ」
今日の昼前、確かにこの手で玄関の鍵を閉めて出てきた自分の部屋とは思えない。
「何をよ」
「青春を」
狭い狭いと思っていたが片づければ6畳も結構広い。片づけたのは捲簾だが。
その捲簾は、今、ちゃぶ台を挟んだ向かいで、台所から勝手に発掘した大吟醸を手酌で流し込んでいる。
「…身分違いの恋に気付いた瞬間恋敵が現れて喧嘩し失恋し今日新たな一歩…」
「ところで今晩泊まってく気ですか」
「帰ってもいいの?」
「帰れっつってんです」
屈辱だ。気をつかわれてる。
頼んでもないのに部屋までついてきて頼んでもないのに掃除して煙草を銜えたらライターが出てくる。
「さっきは吃驚してキャパオーバーになってショートして回線があちこちどうにかなっただけですお気になさらず」
「オオゴトじゃねえか」
「女じゃないんですからほっといてください貴方が悪いんじゃありません自分の面倒ぐらい自分で見ますもう立ち直りました!」
帰る気がない証拠に、捲簾は新しい煙草の封を切った。
「俺が帰るのは叔父貴んちだけど。下宿してるから」
「嘘でしょ!?」
「引きずってんじゃねえか」
「貴方が目の前にいるからでしょうが!」
途端にドンと下から衝撃がきた。
「うわ、何。地震?」
「…騒ぐと下の部屋の方が箒で小突くんです。本が雪崩を起こした時以来だから二ヶ月ぶり」
捲簾は何それひと昔前の学生寮みてえ、とゲラゲラ笑って更に地震を2,3度起こし、今度は一晩帰る気のない証拠にTシャツの長袖を肘まで捲り上げて身を乗り出した。
「ま、呑めや」
誰の酒だ。
「…どう思っていいのか全然分かんないですよ」
捲簾が呑むだけ呑んで座布団を枕に眠り込んだのを確かめてから、天蓬は捲簾を跨いでそっと窓を閉めた。
どう思っていいのか分からない。
存在が妬ましいだけで、捲簾自身を嫌いになる理由は、特にない。
ただ、教授も整理整頓は得意で研究室はいつもきっちり片づいてるとか。吟醸好きだとか。殴り合いはともかく喧嘩好きだとか。滅多に素直に笑わないからさっきみたいに笑われると驚いて見惚れるとか。気が付いたら捲簾ではなくその向こうの叔父が見えないかと目を凝らしてる。目を閉じて声だけ聞くと、そこにいるみたいで。かと思えば違うところを必死で探して安心してみたりの繰り返し。
天蓬はそろそろと躙り寄って、間近で寝顔を覗き込んだ。
…寝顔は幼すぎてよく分からない。
決して恋愛感情なんかじゃなかったが、自分にとって教授の存在が大きいように、自分も大切に思われたかった。
20年前の彼は、捲簾そっくりだっただろう。
20年後の捲簾は、彼そっくりになるだろう。
あれほどなりたかった彼になれるのは、努力した自分ではなく血のつながった捲簾だ。
「…風邪ひきますよ」
押入から引っ張り出した布団を腹いせに頭から被せてやったが、捲簾はちょっと呻くとすぐさま布団を掻き分けてしまった。
眺めているうちに、夜が明けた。
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