私生活

act4

 
 やっと平年並みの気温だ。平年並み。すなわち春。
 柔らかな日差しがさんさんと降り注ぐ教室で、催眠術のような教授の低音が教室に流れる。
「…ねむ…」
 俯いた途端、シャーペンが手の甲に刺さった。
 要領よく単位を稼いできたが、4年になるまで専門を残したのは失敗だった。これさえ取ってれば週に2度登校すれば済むのに。
「…生産量をx、需要関数P=8-xと定める。米国政府は日本政府に対し輸入1単位あたりt単位の関税を賦課し日本政府は日本企業の輸出1単位についてs単位の輸出補助金を出す。日本企業の利潤πをxとsとtの関数で表す場合日本企業の利潤が最大になるxは?1024番」
 教授はコンと出欠簿で教卓を叩いた。
「1024番。…捲簾?」
 薫が机の下で足を踏みつけた。
「捲簾、当たってる」
「…πをxで微分」
 大欠伸しながらの返事に教授は眉を顰めた。
「…じゃあ日本側が最大限の利潤をあげるための輸出補…」
「補助金を出さずに関税をかけてきたら逃げる。…先生、申し訳ありません退室します」
 立ち上がった捲簾は、鞄と上着を掴むと教授が呆気にとられている間にズカズカ廊下に出た。
 駄目、眠い、死にそう、寝よう。
「…捲簾!貴方どうしてそう素早…捲簾、待ちなさいって、ば!」
 追いかけてきた薫が、階段を上りかけていた捲簾の鞄の紐を後ろから掴んだ。
「…何でおまえまで出てくんのよ」
 捲簾とは3年越しの付き合いになる薫は、捲簾の周囲の数多くの女の中で唯一「妬かない」という理由で公認の彼女の地位にいる。
「あと30分ぐらい我慢できないの?欠席になるわよ」
「薫」
「…俺は我慢できないんじゃなくてしたくないんだ」
「おー分かってんじゃん。おやすみ。ノートよろしく。愛してるぜ」
 踊り場で「愛し」まで言ったところで振り返ったらもういなかった。なんて素敵な女だ。
 捲簾は屋上に上がると、鞄を放り出して豪快に寝っ転がった。学生の大半が昼寝場所に定めた中庭の芝生より、堅くて冷たいコンクリートの寝心地のほうが好きだ。
 雲が凄い速さで流れてく。
 眺めているうちに視界が揺れてきて、もう寝てるのか起きてるのか分からない。
「…ゆ、め」
 夢みたい。
 …なぁ。現実感がないんだよ。
 何してても大したことに思えない。
 捲簾は瞼を擦ると目を閉じた。本格的に眠り込む瞬間、ちらっと天蓬の顔が脳裏を掠めた。
 どーしたかな。学校来てんのかな。俺はまだ2時間ばかりうとうとしたけどあいつ一睡もしてなかった。
 …あいつはいいよ。
 ちょっと危なっかしいけど、なんつーか、怒って悩んで泣いて、ちゃんと生きてる。…感じがする。

その天蓬は相変わらず図書館の最上階にいて埃と煙草の煙で真っ白になりながら窓の下に座りこんでいた。
 いい天気。あったかい。
 本を膝にのせたまま、うとうとしかけては目を開けてを繰り返し、いよいよ諦めて床に寝っ転がった。どうせこんなとこまで上がってくるのは八戒ぐらいだし、上がってきたところで気味悪がって逃げるだろう。
 …捲簾。
 一応地元じゃそこそこ名の通った私大で経済学部。愛想もいいし頭もルックスもまあまあで、人なつっこい。明るくて、ちょっとひねてて、如何にも女にもてそうだ。この不況でもう内定を三つとったと聞かされても、別に驚きはしなかった。ああいう威勢のいい部下なら企業は欲しがる気がする。人生如何にも要領よく渡りそうだ。是非娘の婿にとかなんとか言われて上司のひとり娘と結婚して婿養子に…。
「…ちょっとベタ」
 天蓬は日よけに、顔の上に本を被せた。
 問題はその後だ。捲簾はサークルは8つ掛け持ち、女も常時4、5人だと言ってた。
「…何でまたそんな」
「色々したほうが楽しいじゃん。まあどれでも同じだけど」
「…内定も三つもとったなら、もう就職活動しなくていいじゃないですか。本命が別にあるんですか?」
「別にねーけど暇だし」
 どこの世界にそんな暇つぶしする奴がいる。
「何処です。やっぱり金融?」
「アパレルとマスコミと流通」
「滅茶苦茶じゃないですか」
「何でもいい。どうせ何でもできるし」
 言葉だけ聞くと傲慢だが、いやに淡々とそれを言うので、天蓬は慎重に返事した。
「…器用で羨ましいですが」
「嘘つけ」
 ばれた。
 何でもひととおりできるのは何にもできないのと同じくらい不幸だというが、生憎天蓬はどっちでもないのでよく分からない。もしかしたら後者のほうがマシかもしれない。できるようになるという目標が持てる。ある程度の分かれ道が、つまり選択肢があって、迷いがないと人は進まない。見渡す限り地平線の平地に立たされても歩き出せないのと同じだ。太陽があれば別だけど。
 自分は幸せだ。できることなら一生勉強していたいと物心ついた時から思ってた。回り道をしても、いつか必ずここに戻ってくるだろう。…ここにいよう。
 天蓬はくるりと腹這いになった。
 やる気がないと叔父は評していたが、それは器用なだけが原因だろうか。努力しないでも適当にこなせてしまって、努力するほどの何も見つからなくて、更に努力するほどの何かが例え一生かけても見つかるとは限らないことを知っているのだろうか。諦めたのか。22やそこらで?
 冗談じゃない。


 肩を蹴られて目を覚ますと、薫が見下ろしていた。
「…蹴るか普通」
「キスで起きるならそうするけど」
「おーいいねー。試すか」
 ノートゲットの前に機嫌をとろうと抱き寄せたところが、薫の後ろに天蓬がいた。
「お邪魔します」
「ほんとに邪魔だ!」
 天蓬はまったくの無表情で上着のポケットに手を突っこんだ。
「あっちで待ってますからどうぞごゆっくり」
 日が暮れだした屋上を横切って遠ざかる天蓬の後ろ姿を、捲簾は中途半端に身体を起こしたまま見送った。
「…何だよあいつは」
「貴方を捜してたから。多分ここだって、私が連れてきたの」
「知り合いか?」
「10分ほど前から」
 薫はノートを捲簾にぽんと手渡すと立ち上がった。
「いい男ねー。笑うと凄く可愛いし、貴方の千倍優しそう。彼女いんのかな」
「…いたらすげーな」
 捲簾はなんとなく天蓬と薫が付き合う図を想像してみたが、いつものことだが、その図について特にこれといった感想もなかった。
 天蓬は手摺りに凭れてぼんやり夕日を眺めていて、捲簾が並ぶと何も言わずに煙草の火を移してくれた。
 昔から勘だけは怖ろしくいい。どうせ何か面白くない話をふっかける気だ。
「おまえ彼女いんの」
「いません」
「だろうな」
「教授しか見てませんでした」
 天蓬が真顔なので、捲簾は慌てて噴き出しそうになった顔を立て直した。2年になった頃から叔父貴が大学の話と言えば天蓬の事しか話さなくなったこと、いつ教えてやろう。
「彼女、いい子じゃないですか美人だし。D85と見ましたね。あれでも不満なんですか?」
「別に不満じゃねえよ。ちなみにブラ外すとCだ」
「別に満足でもないと。胸は関係なく」
 何が言いたい。
「おまえのこと、笑うと凄く可愛い〜って言ってたぜ。ちょっと笑ってみろよ、俺を叔父貴と思って。ほらほら」
「院に行きます。決めました」
 厳密に言うと大学院に進学するには試験に合格しなければならないので、決めましたも何もない。
「…それはそれは」
「御礼を言おうと思いまして。ありがとうございました。貴方のおかげで色々すっきりしました。貴重な経験もできたし」
 捲簾は天蓬の顔めがけて勢いよく煙を吐き出したが、天蓬は瞬きもしなかった。
「おまえは言いたいことを前置きなしにずばっと言えないのかよ。何の用」
 天蓬は、質問されたことを忘れたんじゃないかと思うほど長い間、平然と黙っていた。
 捲簾が痺れをきらして手摺りを足でガンと蹴ってから、ようやく口を開いた。どこまでマイペースな男だ。
「…貴方の弱点はどこだろうかと」
「は?」
「しばらく眺めてたら発見できるかと、とりあえずもう一度顔見にきてみたんですけど。ほら、何かできないことがあれば、貴方も目標ができて、ちょっとは人生が潤っ…」
 言い終わる前に拳が下から飛んできて、天蓬はぎりぎりで飛び退いた。
「余計なお世話」
 捲簾は服を叩いて立ち上がり、放り出していた上着と鞄を拾い上げた。
「捲簾」
「貴方は曲がりなりにも僕の憧れの教授の甥なんですから光輝いてて欲しいんです、でないと諦めがつきませんから。だろ?そう言えよ」
 天蓬は数秒おいて、そのままを復唱した。
「んだとこの野郎」
「…貴方が言えと」
「俺は叔父貴の一部でも付属品でもねーの。おまえ夕べ寝てねーっつってたな。俺に何もしてねーだろうな。勘違いすんなよ昨日のはボランティアだ。おまえとお友達になる気もねーし叔父貴の代わりもできねーからな。分かったらせいぜい勉学にいそしんで叔父貴と友情を育めプラトニックに」
 天蓬は、あっさり頷いた。
「そうします」
 教授に聞けばすむことだ。会いに行く口実ができた。
 
 数時間後、天蓬は教授といつもの呑み屋にいた。捲簾が昨日うちに泊まって人の酒飲み干していきましたと言うと、あいつが男友達の家に外泊なんて初めてだ、同性の友人が必要だとずっと思ってた、どうかあいつをよろしく頼む、ここは俺の奢りだと手を握られ、徹夜明けで酔いも回った天蓬は機嫌よくはいはい頷いた。捲簾の話と言うと食いつきが違う。これはいける。
 役に立つじゃないですか、教授の一部で付属品ですよ貴方なんか。
 普段無駄話はまったくというほどしない男なのに、勝手に捲簾を親友に仕立てた天蓬には今日に限ってよく喋って、何度も笑ってくれた。
「にしても、ほんとよく似てますよね。眼とか声とかそっくりで。甥と叔父ってこんなに似るものなんですね。僕は親戚少ないからよく分からないですけど」
 教授は眼の前のシシトウを突きながら、独り言のように呟いた。
「似てるか?」
「似てますよ。捲簾も言ってましたよ、似てるだろ?って」
 次の教授の反応は、どうにも不可解なものだった。

「…天蓬、捲簾に俺に似てるなんて言うな。絶対にだ」

…言っちゃいましたよ。
 
 
 
 

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