私生活

act5


  あいつは甥じゃない。


              俺の息子だ。



 目をあげると八戒が傍に立っていた。いつもの指定席。
 埃が柔らかな日の光に照らされて舞い飛ぶ図書館の最上階。
「いつからいたんです」
「10分ほど前」
 八戒は抱えていた本を天蓬の前に放り投げると、すぐ隣の床にペタンと座り込んだ。いつもなら服が汚れるような真似はしないのに。
「どうかしました?」
「ふられました」
 余りに無表情なのでどうして欲しいやらよく分からず、傷ついているにしても他人に易々と慰められるような男でもないことを知っているので、天蓬は聞こえた証拠に頷いておいて、すぐ本に視線を戻した。ここに居座るということは何か用があるのだ。
 少なくともはっきりと日向が長くなるまで時間をおいてから、八戒はぽつんと呟いた。
「…院はどうするかって、この前僕に聞いたでしょう」
「聞きましたね」
 もうどうでもいいが。
「やめました。就職します。マスコミ関係に知り合いいませんか。できれば出版で男性誌の強いところ」
「いませんよそんなの」
「じゃあいいです」
 唐突に立ち上がると、八戒は別れの挨拶もなしにさっさと階段を降りかけた。それは自分のことで手いっぱいな天蓬でも流石に不安になるような態度で、天蓬は慌てて後輩を呼び止めた。
「待ちなさい。失恋と職種と何の関係があるんです」
 いつかと同じように八戒は天蓬を見上げ、不意に笑った。
「決まってるでしょう。追いかけるんです」


「他に考えることはねぇのか」
 捲簾は畳の上に腹這いになって、酒屋のおまけに付いてきたグラスを手の中でぐるぐる回していたが、突然水割りの中に指を突っこんだ。
「おめーといいその後輩くんといい、よくもまあ日がな一日好きだの嫌いだの惚れただのはれただの考えてられるよなあ」
 教授の爆弾発言から1週間経っていた。
 その間、天蓬は寝ても覚めても考えていた。教授ではなく捲簾のことを。
 考えたまま、夜中に突然頬に平手の跡をくっきりつけた捲簾に終電がないから泊めろと廊下で喚かれ、心の準備をする間もなく玄関を足で蹴破られた。
「へー。貴方はどんな大層なこと考えてるんです」
「水割りがどうやったらうまく混ざるか」
 天蓬はそのへんにあった割り箸を捲簾めがけて放り投げた。
「他には?」
「おまえはいつまで俺の顔を眺め続けるのか」
 自分にしかできないことをやりたい。誰かのたったひとりになりたい。
 ここは自分の場所だろうか。他にやるべきことがあるんじゃないか。
 そんな当たり前の欲も疑問も持たずに何でもかんでもそのまま受け流すような捲簾の態度に最初は腹が立ったが、もしかしたらそれが自然の摂理にのっとった正しい姿勢なんじゃないか。大概の人間は何もできず、人ひとり自由にできず、同じ場所で同じような日常を繰り返して死んでいくんだから。
 自分はまずまず順当に大学教授になって適当な年齢で結婚して何人か子供を作って、学生と同じ時間割で休暇をとり、その間に事故ったり患ったりしながら死を意識し始めて、定年退職して年金で暮らして老衰で死ぬ。あっと言う間に誰からも忘れられる。珍しくもない、ドラマティックでもない、多少のでこぼこはあっても平らに均せば過不足のない、平凡で退屈でそこそこ幸せな一生を送るだろう。大半の人間がそうであるようにだ。本当は誰も特別じゃないし、誰の代わりでも他にいる。それでも極少数の特別な人間がいる限り、捲簾のように諦めきったりできるもんじゃない。何か決定的なことがあったのだ。何か、そう、絶望するようなことが。
 天蓬は1週間前、教授に延々詰め寄った。
 僕が思うに、父親の平々凡々で生活にくたびれきった背中を見て育ったらああなるんじゃないでしょうかね。ほら父親って自分の未来に一番近いモデルでしょう。いえ捲簾のお父さんのことなんか全然知りませんけど、子供は家にいる父親だけ見て幸せそうじゃないと思っちゃうことがあるじゃないですか。
 教授も相当酔っぱらってた。口を滑らせた。

    捲簾は俺の息子だ。

 自分の失言に驚いた教授と思わず我が耳を疑った天蓬は同時に箸を取り落とした。
「いつも御来店ありがとうございます、仲がいいんですねえ。そうしてると親子みたいですよ」
 余計なタイミングで余計な声をかけてきた居酒屋のママはふたりに同時に睨まれて訳も分からず追い払われた。
 ちょっと待て。甥と息子じゃ全然違う。何がってパワーが。甥ならまだしも息子。
 捲簾が教授の息子?…息子?
「…じゃあなんで甥」
 教授はガコンとテーブルに突っ伏し、30秒はそのまま止まっていた。死んだかと思い出した頃に苦渋に充ち満ちた声がした。
「……今のなし」
「はい」
 天蓬はあっさり頷いた。言うだけはタダだ。
「でも捲簾は」
「知らん。だから似てるなんて絶対に言うな。俺に似すぎてるもんであいつは疑ってる」
 何だ。何があった。
 他人の家のいざこざを根ほり葉ほりひっくり返すなんて実に美しくない。美しくはないが仮に教授の一族が歴史に残るような偉業を成し遂げたら何百年先の研究者が学問の一旦として家系図をときほぐすんだから、自分が今やって何が悪い。
 という滅茶苦茶な理屈で自分の行為を正当化し、天蓬は早朝学生課に直行して口八丁手八丁で職員を騙くらかし、資料閲覧に成功した。天蓬の頭の中には嘘=悪いことという認識はゼロだ。必要な嘘なら知恵だ。
 天蓬の指が止まった。捲簾の保証人は教授。両親は14年前に死亡。
「…あ?」
 心境に忠実に声が出た。暗。見るんじゃなかった。とはまるで思わず、天蓬は1時間も経たないうちに捲簾が養子でもなんでもなく両親の実の長男であることも、14年前の両親の死亡原因がよくある交通事故であることも突き止めた。息子についての記述がないから事故車両には乗ってなかったんだろうが、それじゃあ何だ。少なくとも戸籍上は教授は間違いなく叔父で、捲簾の父親の弟。
「…なんなんでしょうねぇ」
 自分の行動力の方が余程なんなんでしょうねだが、ともかく両親が小さい頃に死んだからといって将来に絶望するのも変な話だ。それより、捲簾が親戚に、いやずばりいうと教授に引き取られもしなかったのが不思議だ。教授に子供はいないはず。まあ子供を引き取るなんて子犬をもらうのとは訳が違うから右から左へって訳にはいかないにしても、実の息子なら。
 そんな時に八戒が、失恋報告をしにやってきたのだ。
「…追いかけるって?自分をふった相手を仕事で捕まえる腹ですか?」
「みっともないからやめろって言っていいですよ」
 先ほど他人の戸籍までひっくり返した天蓬は、首を横に振った。
「好きなら当たり前です」
 好きなら。

 誰を。

「もーいつになったら見飽きんのよ、男前に穴があく。俺が年くって叔父貴そのまんまになんの待ってんの?」
 天蓬はゆっくりと、細く長く煙を吐き出した。
「…よく見たらそうでもない」
「は?」
「似てませんよ」
 捲簾は、しばらく割り箸でカラカラ氷を鳴らしていたが、いきなり身体を起こしてこちらを見た。
 おやと思った時にはもう目の前まで来た捲簾が、天蓬の凭れていた壁の両側にばんと掌をついた。素早い。
「…おめえ、なんか言われたろ」
「なんかって何です」
 間もおかず極普通に返したつもりだが、捲簾の声は一段低くなった。
「叔父貴になんか言われたろっつってんだ。似てるって言うなってか?おっととぼけんなよ、今、顔に出た。ほら目ぇ泳いだ。言い訳考えても無駄。おまえの考えてることなんかぜーんぶ分かんだよ。今、勘のよさもそっくりだ〜って思ってる。嘘つくなよ。ばれるぞ」
 天蓬は少しでも捲簾の凝視から離れようと壁づたいにずり下がったが、捲簾がそのままついてきたので、遂に両手を上げた。
「…あーもー分かりましたよ。嘘つきたくないんですけど言えないんです、勘弁してください」
「ああ、叔父貴と約束?ここだけの話ってか?」
 天蓬は溜息をひとつついただけで返事はしなかったが、捲簾は勝手に肯定ととって頷いた。
「ここだけの話、ねえ。どうせ酔わせて口割らせたんだろうなあ。酔えば一発だからなあいつ。ふーん、俺には言えないってことは、あれか。俺と叔父貴の本当の関係についてだ。だろ」
「何ですそれ。叔父じゃないんですか?」 
 うっかりひっかかって「違います」と言いそうになった。ここは驚くところだ。
 数秒ののち、捲簾はおもちゃに飽きちゃったというような唐突さで天蓬の上からどいた。
「まあいいや。ツマミ買ってくる」
 多分ばれた。手強い。いきなり何言って何やるか分からないのにどれもこれも本気じゃない。次から次へと心の中を読まれるような男と付き合う女の気がしれない。こんなのがそばにいたら四六時中気が休まらない。
 …別に休みたい訳じゃないな。
「僕も行きます」
「何でよ」
「何が何でよです。嫌なんですか」
 捲簾は何か言いかけたが面倒になったらしく、黙って靴をひっかけた。
 コンビニまで公園を突っ切って徒歩1分。降るか降らないかの小雨のせいで空気がけぶるように生暖かい。
 捲簾とこの前ここに来たときは、まだ。
「この前来た時はまだ缶コーヒーホットだったのにって思ってるでしょ捲簾」
「思ってる。…何、さっきのお返し?」
「気分悪いでしょ。もうああいうのやめてください。嫌われますよ」
 捲簾は火のついていない煙草を口の中で転がしながら、天蓬を見た。
「おまえも同じこと考えてたろ」
「はいはい貴方は凄いですね。やめろって言ってんです」
 捲簾は通りすがりに、ブランコをトンと小突いて揺らした。
「じゃあ気付かないふりしてやるよ」
 何を。
 住宅街の真ん中に、そこだけ煌々と光るコンビニが見えた。
「何を」
「おまえのいいとこって態度は素直なとこだな。好きだぜそういうの」
「何をです」
 店の入り口にある灰皿に、捲簾は結局火をつけないまま雨で湿った煙草をぽんと放り込んだ。
「おまえ俺の口ばっか見てる」
「…口?」
「口の中の舌ばっか見てる」
 …不公平だ。
 
 
 

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