私生活

act6


 同じ敷地に住んでいるはずの我が最愛の甥っ子は、平均すると三日に一度家に戻ればいいほうだ。
 どういう訳だか深夜も3時に庭を横切って帰ってくる捲簾の姿を書斎の窓から発見して、教授はパジャマの上から上着をひっかけた。あと10分遅かったら寝ようと思ってた。
 捲簾の部屋は庭を隔てた離れの2階で、元は妻が趣味でやっている油絵のアトリエだった。ちょうど捲簾の部屋と書斎の窓の高さが同じなので、規則正しく帰宅していた頃には窓越しに手を振っておやすみを言ってくれるような可愛い真似もしてくれたものだが。
「捲簾」
 気をぬくと感慨に耽りそうな頭を振って、絵の具の名残があちこち残った扉をノックすると、珍しく返事がくるまで時間がかかった。
「…もう寝てる」
「じゃあ起きろ」
「老人が夜更かしするんじゃねえよ」
「どのツラ下げて言ってんだクソガキ」
 ようやっと戸が開いた。なんだそのツラは。
「喧嘩か?」
 舌が縺れてるのは酒のせいじゃなかったのか。頬を腫れあがらせたうえ口の端を派手に切った捲簾は、肩をちょっと竦めただけで部屋に叔父を招き入れた。やけに片づいているように見えるのは物がないからだ。服も靴もほとんどない。安物を着潰してはぽんぽん捨てるからだ。CD1枚も雑誌1冊もテレビも食器もない閑散とした部屋にある唯一の家電であるところの冷蔵庫を、試しに開けたらコンセントが入っていなかった。
「…おまえな」
「何」
「生活しろよ」
 窓際で煙草に火をつけた捲簾は口の端の傷を指で押さえながら煙を吸い込み、外に吐き出した。
「叔母さんに見つかったらまた拗ねるぜ?なんか話があったんじゃねえの?」
「顔見に来ただけだ」
「見たいの?」
「そりゃな」
「何で?」
「好きだからな」
「顔が?」
「おまえがだ。顔だけ好きなんてことがあるか」
 いつもの事だが叔父の真正面からの愛情表現には、呆れるを通り越してうっかり感動する。
「恥ずかしくねぇ?」
「恥ずかしいのはおまえだ。いちいち言わせるな」
 叔父の甘ったるい煙草の匂い。天蓬と同じ銘柄。あいつに煙草を教えたのは、もしや叔父貴か。常備酒の銘柄も同じだった。煙草を覚えた高校の頃に叔父貴がそばにいてくれてたら、自分もこれを吸ってたのか。
「小言は言いたくないが、入学前に留年と妊娠騒ぎだけは許さんと言ったのは覚えてるな」
「女のとこには泊まってない」
「じゃあ天蓬か。そういや、こないだあいつと呑んだら、おまえのこと親友だって言ってたな」
 捲簾は盛大に眉を顰めた。
「んな訳ねーじゃん。天蓬って頭いいの?悪いの?なんで当人同士が喋ればすぐばれるような嘘つくのよ」
「嘘も方便ってな。可愛いもんだ」
 驚くかと思いきや、叔父はごく普通に相槌をうつとバニラの匂いの煙を輪にして口から押し出した。
「おまえみたいに情の希薄な奴に親友なんかできる訳ないな。ま、師弟愛のダシにぐらい使われてやれ。減るもんじゃなし」
 時々叔父が怖くなる。もしかして天蓬の恋心にも気付いてた、とか。
「……叔父貴さ…もしかして」
「いいことを教えてやろう捲簾。うちの家系は代々やたらめったら勘がいい。でも気付かないふりをしておいたほうが大概物事うまくいく。鈍感な人間ほど愛される。これは真理だ。おまえも何度か痛い目みて学習するこったな。俺の歳になりゃ苦でもなくなる」

 そういうのやめてください。嫌われますよ。

 …ああ、そうだな。そうかもな。
「天蓬は大事な教え子。おまえは最愛の甥。俺は一生そのつもりでいようと思う。おまえはどうする?」
 捲簾は、自分によく似た真っ黒な瞳を見詰め返した。
 どうする?
 つまり本当のことをぶちまけるか、このまま知らないふりで通す、か。
 うちの家系は本当に勘がいい。親父も怖ろしく勘がよかった。人の心が読めるみたいに。その親父は何故か俺を憎んでたし、叔父貴は絶対に家に近寄らないくせに母親と俺だけちょくちょく外に呼び出した。叔父貴の奥さん(つまりこの部屋の持ち主)は未だに俺とまともに目を合わせない。そして俺は日に日に叔父貴に似てくる。そんなもん俺でなくても疑う。もしや俺は叔父貴の実の子供じゃないのか。何度も喉まで出かかった。その疑いをなかった事にしろと言っているのか。
「…ちょっとムシが良すぎねえ?」
 叔父は不意ににっこり笑った。
 その笑顔のまま、言った。
「辛いのは自分だけだと思ってるなら大間違いだ捲簾、思い上がるな。おまえは俺のことを何年も疑い続けて多少は苦しいだろうが、俺もおまえのことを何年も疑い続けて多少は苦しい。おあいこだ」
 捲簾の手から、火のついた煙草が落ちた。
 正確には、床に到達する前に向かいの男に灰皿で受けられた。そうなるのが分かってたみたいに。
 よくもまあこんな怖ろしい男と一緒になれたな、叔母さん。
 何かひとこと言い返してやりたかったが、不意をつかれて文句も思いつかない。
 疑ってたのか。ずっとずっと。それで平気な顔で俺を溺愛してたのか。できるのか。凄ぇな。
「ところで捲簾、そのケガどうした。俺の目には女に無理強いして平手をくらった挙げ句噛みつかれたようにしか見えんが」
 戸口で振り返った叔父は、もういつもの顔だった。
「…平手までは薫だけど、噛みついたのは天蓬」
「そりゃまた…」
 ようやく叔父の不意をつくことに成功した。
「……意外な展開だな」


 捲簾はしばらく図書館の床に堂々と寝っ転がって熟睡している天蓬を見下ろしていた。
 図書館の最上階に主がいるという伝説は聞いていたが、直に見たのは初めてだ。
「おい天蓬」
 何度呼んでも反応がないので、いつぞや薫にやられたように肩を蹴飛ばした。
 天蓬はようやく薄目を開け、相手が捲簾だと分かった途端今まで寝ていたとは思えない素早さで足を薙ぎ払った。
「うぉわ!」
「…よくもまあ昨日の今日で僕の前に顔が出せましたね」
「お言葉だが俺はてめぇに蹴り出されたおかげで夜中に血ぃ流しながら駅五つぶん歩いて帰るハメになったんだけどな。ついでにこれ以上口が開かねえし朝から物食えねえし」
「知るもんですか」
 天蓬は壁に凭れて座り込むと、床に散らばった本を自分の周囲に積み上げた。
「ここからは僕の基地です。境界を越えたら攻撃します」
「何だ、思ったほど怒ってねえな」
 あ。またやってしまった。
「…それやめてくださいって言ってるでしょういちいちいちいち腹の立つ。迷子犬の読心でもやって家に帰るよう説得してまわったらどうです。暇つぶしに」
「悪い。もうやめる」
 天蓬はしばらく捲簾を疑わしそうに眺めていたが、ようやくふっと肩の力を抜いた。
「…何かあったんですか?いつもより余裕なさそうですけど」
 あったようななかったような。
 何だか猛烈に分かりやすい奴と喋りたかったんだが、それを言うとまた怒る。
「昼メシ、どう」
「…食べられないんじゃないんですか?」

 気が付くと、捲簾の口の中の舌の動きばかり見てしまう。
 それが見たくて喋らせようとしてしまう。

「なんででしょうね」
 夕べコンビニでツマミを漁りながら、天蓬はごく普通に捲簾に尋ねた。ちょうど珍味の下の棚を物色中で床にしゃがみこんでいた捲簾は、心底驚いたふうに目を見開いて天蓬を見上げた。
「おいおいなんだその質問は!おまえは処女か!」
 店員がこっちを見た。
「……一生そうありたいですね」
「やらしいこと考えてっからに決まってんだろ」
「まさか。貴方相手に」
 捲簾は視線を陳列棚に戻し、そのまま天蓬を手招きした。
「これとこれ、どっちがいい」
「どっちでも」
「ちゃんと見ろよ」
 天蓬が溜息をついて手にした籠を床に置き「どれ」と捲簾の脇に膝をついた途端にキスされた。容赦なく噛みついて立ち上がった天蓬が振り向くと、店員はレジの向こうでまだポカンとこっちを見ていた。
 もうこのコンビニ、使えない。
 
 
  

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