私生活
act7
教授の邸宅は築40年を越える煉瓦造りで、赤い屋根が大きく方流れになっている。
どっしりした高級住宅が立ち並ぶ界隈でも一際目立つ一軒だが、それは大きいとか広いという理由ではなく(大きいし広いが)佇まいが風変わりなせいだ。緊張と期待でギクシャクしながら初めてこの家を訪れた時は、町並みなどなんのそので好き勝手に建ってます的建築物が、教授の人柄にかぶって見えて妙に感動したものだが。
天蓬は窓から身を乗り出した。
今は別のものに見える。
離れのある敷地は、おそらく教授と奥さんの無頓着な性格のせいだと思うが、庭というより雑木林だ。
日が落ちかけた薄闇の木々の間から、ちょうど真正面に教授の書斎の窓灯り。
「…書斎にも何度かお邪魔しましたけど、下宿人がいるなんて気付きませんでしたよ」
言ってから、しまったと振り返ったが、捲簾は聞こえなかったか聞こえなかったふりか聞こえたがどうでもいいかで「落ちんなよ」とだけ言った。
「僕がやります」
「いーって客なんだし」
「コーヒーには自信ありますよ。教授に鍛えられました」
捲簾はわりと大人しく、包帯を巻いた右手を薬缶から引っ込めた。
…にしても何だこの部屋。。
天井を見上げると、そこも材木にコンクリの打ちっ放しだ。元がアトリエだったというから多少無骨なのは味としても、これじゃ倉庫だ。「そのへんに座って」と言われるまで、ここが捲簾の居住空間であることに気付かなかった。小学生の頃に木の上に作ってた秘密基地のほうがまだ生活感がある。家電もないし家具もない。人の匂いもしない。目の前のコーヒーメーカーすら、教授が母屋からわざわざ持ってきてくれた。
「やんちゃもまあ結構だが、甥と弟子に俺の管轄で問題起こして欲しくないな」
上下ジャージという珍しい出で立ちの教授は、せいぜい今後勉学に励んで名誉挽回に努めるように、とひとしきりふたりに説教をたれた後、天蓬ひとりにこう言った。
「後で母屋寄って晩飯食ってけ」
「…はい」
反省の色を示すために捲簾と並んで正座していた天蓬は、教授が出ていったと同時に身体ごと捲簾に向き直った。
「お聞きしても?」
「俺は叔母さんに嫌われてっから、あっち行ったことねえの。聞きたいことがそれなら」
羨ましいと思ってた。憧れの教授に愛されてひとつ屋根の下に住む、声も顔もそっくりの甥、だと思ってた。でも違った。
「貴方は?」
「は?」
「貴方は伯母さんのこと嫌いなんですか?」
捲簾は天蓬が何かとんでもなく間抜けな質問でもしたかのように、何度か瞬きした。
「特に好きでも嫌いでも?」
天蓬が捲簾の利き腕にうっかりヒビを入れてしまい、タクシーで病院から自宅まで捲簾を送ってきた経緯は、今日の昼間に遡る。
「4年も通ってっけど、学食に入ったの初めてかも」
「…冗談でしょ」
ランチタイムにはまだ早い。
食堂はまだガラガラで、来たる昼時に向けて気合いの入ったおばちゃんたちの期待の眼差しをもろともせず、捲簾は自販機に直行した。
「…人を昼食に誘っといて何ですそれは」
「固形物食いたくねえんだよ誰かのせいで。おまえは食えよ、奢るから」
「いつもどこで食べてるんです?外出てるんですか?」
「あんまり食べない」
窓際に向かい合って腰を下ろすと、天蓬は溜息をついて割り箸を割った。
これはもしかしてあれか。
「ときに捲簾、ラーメンは何が好きですか。僕は塩で細麺煮卵は外せませんが」
「別にどれでも」
捲簾の例の病気だ。
どれでも同じ。
「…ほんっとに面白くない人ですね貴方。グルメ・スポーツ・恋愛談義は年齢問わず同性と心通わす必須科目でしょう。だいたいラーメンを熱く語れない男子大学生なんてあり得ませんね。味噌と醤油じゃそばと茶そばぐらい違います」
「ますます同じじゃねーか」
向かいで音をたてて紙パックを啜った捲簾は、無意識だろうが何度も何度も口の端の傷を舌の先で舐めている。喋るたびに動くところだから傷の治りも遅いだろう。舌にしとけばよかった。何もあんな目立つとこに噛みつくんじゃなかった。図書館からここにくる間に捲簾に声をかけてきた女が軒並み「その傷は何だ他の女か」と絡んできて気が気じゃない。よく考えたら自分は何も悪くないのに。
…教授は豚骨派だな。呑むと必ず最後はラーメンで。酔っぱらって延々国道歩いてラーメン屋探すのが楽しくて。
そうか、捲簾とは、あれはできないのか。
ふっと目が合った。
「味噌コーンだの醤油豚骨だのはぜってー邪道。あと煮干しダシってのも俺はだめ。やっぱ鶏ガラ豚骨で背油浮いててスープ真っ白なちぢれ麺、具は最初の一杯で山ほど入れといて替え玉で麺を味わう、これ基本だろ。あと卵だのキムチだのスープの味変わっちゃう具も許せねー、葱にノリにチャーシューで充分、柚胡椒と揚げにんにくついてるとこなら文句ねえな。あーあとテーブルにティッシュ一箱は絶対な。女性客に変にこびてっとこは大概後味さっぱりとか訳わかんねえ売りで全然食った気しねぇ。くどいほどじゃなきゃラーメンじゃねーっての。こないだ環八に博多ラーメンの無茶苦茶美味い店できたんだけど今度行かね?深夜ならまだ雑誌にも出てないから余裕!」
いきなりまくしたてた捲簾の視線は、呆気にとられた天蓬をすかっと通り過ぎて窓の外へ飛んだ。
「…って言やー満足か?簡単だな、心通わすのは」
外は午前のまだ柔らかい陽光が燦々と射し込んで、どこもかしこも真っ白だ。
「…すいません」
捲簾といると、下手に喋るのが悪事のような気になってくる。天蓬が食事を再開し、吸い物の最後の一滴を啜り終わるまでの約14分間、捲簾はストローを口の中で回しながら、眩しくて何も見えない外を見ていた。
…何かあったのか。
実際何かあったのかと先刻から何度聞いたか知れないが、全部「別に」でかわされる。何しに来たんだ、この男。
夢、みたい。
不意に天蓬は手を止めた。今、捲簾が喋ったか?
夢みたいで、現実感がないんだよ。
捲簾には。
…ああ、そうだ。この前教授が。
俺は捲簾を見てると不安になる。もうすぐUFOが迎えに来て月に帰るとか、もう余命幾ばくもないとか、何かに関わってもすぐ駄目になるのが分かってて逃げてるふうに見える。そんなんであいつちゃんと生きていけるかね。
天蓬は勢いよく割り箸を器に放り込んだ。
生きていけるに決まってる。少なくとも自分や教授よりはよほど器用だ。
教授が問題にしているのは捲簾自身が「気分良く」生きていけるかだ。
教授が怖ろしく頭がきれるのは知っている。見かけほど優しくも穏やかでもないことも分かってる。彼には甥が、いや息子が夢の中にいる理由に充分心当たりがあるはずだ。にも関わらず惚けてあんな話のふり方をするということは。
「ごちそうさま、捲簾」
「……」
「喋っていいですよ」
要するに自分に捲簾を何とかしろと言っているのだ。捲簾には自分が、いや自分でなくても誰か、何か新鮮な刺激が必要だと思っているのだ。教授によると捲簾には男友達がいないらしいし。そりゃそうだ。外面はいいかもしれないが、こんなに厄介で勘にさわる男と身体以外何を目当てに付き合えと。
捲簾はようやく歯形がつきまくったストローをポンと口から引き抜いた。
「どうぞ。何でもお好きなことを」
「何でも?」
「何でも。怒りません」
つつくなら今だ。自分の勘など教授一族の足下にもおよばないが、捲簾は今日は弱ってる。
「…ますます目がいく」
「…怪我してれば、僕でなくても見ますよ」
「どうせ噛みつくなら舌にしとけばよかった」
「……」
「よし、今度はそうしよう。捲簾は今度いつ僕にキス」
天蓬がほとんど投げつけた灰皿を、捲簾は笑いながら受け止めた。
「貴方いったい何しに来たんです。怒らせたいんですか?」
「怒らないって聞いたから言ったんだけど」
「…特に話はないんですね?」
「さあ?」
リタイヤです教授。
天蓬は上着と鞄を掴むと顔も見ないで立ち上がった。
「用がないなら僕はこのへんで。貴方もどうせ授業に出ないんだったら家に帰って治療に専念したらどうです」
漂ってくる煙の勢いは変わらない。今日は教授は研究日で一日自宅にいるだろうことをふっと思い出した。
帰った家に教授がいるなどという幸福を授かっておきながら、何が夢みたいだ。
ようやく2講が終わって騒がしくなってきた食堂の真ん中を大股で抜けて、出口まで行ったところで、天蓬は三つ数えて振り向いた。
待ってる。
入り口で立ち止まった天蓬の肩に、外から男女入り交じって騒がしく入ってきた連中のひとりがドンとぶつかった。
「邪魔!んなとこでぼーっと突っ立ってんじゃねえよ!」
「…うるさい」
いきなり場が凍った。
天蓬は単に感想を述べただけで、実は「述べた」ことにも気付いていなかったが、誰から見てもこの状況で血気盛んな若者にしてはいけない反応だった。
「…ちょっと。おい。あんた」
天蓬が未だまったくの上の空で自分を視界の端にも入れていない、と悟って逆上した男が天蓬に向かって伸ばした手を、天蓬はこれまた心のままに叩き落とした。
「邪魔です」
男を押し退けると、天蓬は後ろには目もくれずに倍速で元いたところへ引き返した。
捲簾はテーブルに肘をついて煙草を銜えたそのままの姿勢で、天蓬が目の前に来るのを眺めていた。
戻ってくるのが分かってたみたいに。腹の立つ。
「貴方ね、いったい」
「おかえり」
いつものからかうような口調じゃなかった。それで初めて、捲簾が何しにきたのか分かった。
「……ただいま」
「危ないぜ、後ろ」
いきなり捲簾に引っ張られて前につんのめった天蓬の頭上を、背後から呻りをあげて飛んできたパイプ椅子が掠めて空中で開き、捲簾の腕に噛みついた。
バキン。
捲簾を知る前は、人と会うことイコール話すことだった。
ただ、会う、事がなかった。
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