私生活
act8
長く一緒にいると顔が似るというのは本当だろうか。
料理上手で美人な教授の奥さん。不意の来客である天蓬の居心地を一瞬も悪くさせない穏やかな笑顔と和やかな会話。彼女は教授を愛してる。熱い会話も熱い視線もないのに深く深く愛しあって気遣いあってることがよく分かる。
天蓬にはひとり暮らしの気ままさが天国のように思われたし、人恋しいとか寂しいとかいう感情とは無縁だったが、それでも誰かと一緒に年をとるというのも悪くないと身をもって教えてくれたのはこの夫婦だ。
表面上穏やかなこの一族の闇。
捲簾。
「天蓬さん、食後はデザート?コーヒー?両方?」
「ありがとうございます。でもそろそろおいとましないと」
「天蓬、本見ていかないのか?」
「ありがとうございます。でもそろそろおいとましないと」
夫婦は同時ににっこり笑った。
「見てけ」
教授は勝手に立ち上がり、奥さんは勝手にコーヒーを淹れだした。
「書斎にお持ちしますから、どうぞ二階へ」
…ああ夫婦って凄い。天蓬が上の空で階段を上がると、教授は部屋に入るなり勢いよくカーテンを開けた。
「どうぞ」
「は?」
「捲簾だろ」
教授は窓際で煙草に火をつけた。煙がダメな奥さんの意向で1階は禁煙なのだ。怪訝そうな顔を作ってみたが教授が相手にしてくれないので諦めて、天蓬はできるだけ首を動かさないように窓の外に目をやった。真っ暗だ。
「あ!まさか怪我人のくせに性懲りもなく女のとこ行っ…」
「いるよ」
…まさか普段灯りをつけない、とか。
「なんか凄くヤな病み方ですね!」
「面白いか?」
天蓬は思わず振り向いた。教授は本棚にずらりと並んだ本の背表紙を指でなぞっている。いつもの顔だが声音が違う。詰問調だ。
…何か教授の機嫌を損ねるような真似をしただろうか。した。レポートの提出期限は過ぎてるわ、大事な甥に怪我はさせるわ、夕食時に急にあがりこむわ、鬱陶しいほど付きまとうわ。
「…別に面白かないですが」
「じゃあ珍しいか?」
「それはまあ」
「カーテン閉めろ」
奥さんが部屋に入ってきてコーヒーを置いて出ていく間、教授は黙りこくっていて、唐突に口を開いた。
「おまえ捲簾とちゃんと付き合う気あんのか?それとも青春の想い出に珍獣の写真でも撮ってるつもりか?ただの興味本意ならこれ以上あいつをひっかきまわすな」
「はぁ!?捲簾をよろしく頼むとかなんとか仰ったのは僕の空耳ですか?」
「教務課で資料をひっくり返したのはおまえだな」
うわ。
いつもなら即座に謝って気勢を削ぐのだがその隙もなかった。
「おまえが捲簾の友人だと言うから頼むと言ったんだ。俺も妻もおまえのことは身内だと思ってる。どうせ長い付き合いになるんだ、こそこそ姑息な真似せんでも知りたい事があるなら教えてやる。捲簾のことでもあいつの親のことでもな。それはおまえがアレと腰据えて付き合う気があるならだ。友人ならだ。そうじゃないなら話が違う。通りすがりの奴に身内の恥さらす必要はない」
ここに至ってまだ、天蓬には教授の言わんとしていることが計りかねた。友人って何だ。どこからが友人だ。顔と名前を知っていて家に泊まって酒呑んでるんだから、そこそこ友人じゃないのか。捲簾がどう思ってるかは知らないが。
「…誰から見ても充分友人の域と思いますが」
「誰かから見た話なんか聞いてない」
天蓬は突然自分が背中に回した手で背後のカーテンを握りしめているのに気が付いた。
見てる。
後ろ。布を突き破って視線が刺さる。
…まさか。どうかしてる。
「何が仰りたいのか分かりません、はっきり言ってください。確かに僕は捲簾に興味はありますが嫌いなものに興味なんか持ちません。貴方にだって興味はあります。確かに見ず知らずの他人が突っこんでいい種類のことじゃないのは見当つきます。非礼はお詫びします。でも僕が捲簾にとって通りすがりかどうかどうして分かるんです。捲簾がそう言ったんですか?」
教授は初めて真正面から天蓬を見た。真っ黒な目。
前と後ろからじわりと押しつぶされるような錯覚で、天蓬は大きく息を吐いた。
「恋愛感情なら通りすがりだ」
耳鳴りがする。
天蓬は教授の家を飛び出すと離れの階段を駆け上がった。母屋に行くために部屋を出た時、確か捲簾は中から鍵をかけたはずだが、ノックもせずにノブを回すと簡単に開いた。
「捲簾?」
闇に目が慣れない。二、三度瞬きして目を凝らすと、捲簾は開け放った窓枠に凭れていて、出てきた時に見たのと同じ姿勢で煙草をふかしていた。自分が出てから戻ってくる間、この部屋だけ時間が止まってたみたいに。捲簾が灰皿を怪我していないほうの手でとんと押しやったので、天蓬は極自然に部屋にあがって捲簾の向かいに座れた。この男の気の使い方はそつがなさすぎる。
ヘビースモーカーなはずの自分が随分長い間1本も吸わずにいたことを、ようやく思い出した。
「苛められた?」
「また勘ですか。それとも苛められたような顔してますか」
「別にどっちでも。切羽詰まった感じで庭突っ切って来たから。顔は普通」
「…それはよかった」
カーテンが引かれたままの書斎の窓は輪郭がぼやけて、実際の距離より遥かに遠く見える。なんでこうなる。ほんの何週間か前まで教授は誰より身近で信用できる立派な大人だった。今でも好きだ。尊敬してる。だが捲簾と会ってから、どんどん彼が遠くなる。このふたりの間に身内の愛情なんかじゃ片づけられないものがあって、自分はその正体を知らないのに、存在だけは知ってしまった。
こっちが口を開くまで口をきかないつもりらしい捲簾に煙草一本ぶん沈黙に付き合ってもらって、天蓬はようやく肩の力を抜いた。
「…僕らの間に友情は存在しますか」
「また頓狂な質問だな」
「頓狂なのは教授です。友人ならいいけど貴方に恋愛感情持ってるなら近寄るなって言われましたよ。友情は一生もんで恋愛感情は一時期だからそんな奴は貴方に必要ないんですって。どうやって結婚できたんだか知りたいもんです」
捲簾は窓の外に目をやって、しばらく天蓬の言ったセリフを頭の中で転がしていた。
「…いい気味」
「は?」
「いやこっちの話」
またこっちか。いい加減そっちに入れろ。
天蓬がひたと捲簾の横顔を見詰めていたら、くるりとこっちを向いた甥っこはやけにあっけらかんと言い放った。
「もう遅いぜ。帰れば?送って欲しけりゃ送ってやってもいいけど」
「何勝手に話終わらせてるんです。僕の気がすむまで帰りませんよ。聞きたいことは山ほどあるし貴方利き腕怪我してるし母屋の誰も面倒みてくれないんじゃ僕がいたほうがいいでしょう。宿題でもオナニーでも手伝いますから泊めてください」
数秒おいて、捲簾はひさしぶりに笑った。
「といっても布団ねーしな」
「何のための春です」
冷蔵庫のコンセントが入っていない部屋に氷があるわけないので、思いっきり生のウィスキーを舐めてるうちに、指先から酔いが回った。血管がきゅっと収縮して、別のところで緩みきる。煙草もセックスもだいたい同じ。
「今更なんですけど何で灯りつけないんです。暗いの好きなんですか?」
「支障ねえから」
一晩中空が仄かに明るい東京で真の闇はなかなか味わえない。窓を開けていれば手元ぐらいは、まあ見える。
「…本は読めませんね」
「読みたきゃ帰れ」
また余計なこと言った。
窓枠のこっちとあっちに凭れて、真ん中に教授の書斎の灯り。
教授はなんであんなこと言ったんだろう。確かに捲簾が不貞の子としたら恋愛で余程痛い目にあってるに違いないが。もしくは娘に言い寄る男が軒並み気に入らない父親と同じで自分が気に入らないとか。そんな殺生な。
れんあいかんじょう。
…って何だろう。
全人類共通の価値観だとか人生観については太古に遡って日々こねくり回しているのに、こんな基本的なことがよく分からない。そもそも何だろうと考えてる時点でそうじゃないんじゃないか。気が付いたらもう落ちてるものじゃないのか。
「…捲簾。恋愛したことあります?」
「酔わなきゃ言えないことがあんなら言わなくてももう分かるけど」
「分かってませんね。絶対」
どうして人には伝達手段が言葉しかないんだろう。聞きたいことが山ほどある。巧く。どう言えば。捲簾はそれを全部分かってる。言ってくれないだろうか、自分から。一番簡単なのは怒らせることだ。論理学の基本だ。怒ると言葉にならない程度の、些細でささやかな感情が、無理矢理一番近い言葉を選択して勝手に吹き出る。こっちはそれを何分の一かに縮小して受け止める。でも捲簾が自分にでも誰にでも本気で怒ることはないだろう。言わせるためにはどうしたら。この何にも興味のない男にどうしたら。
何があったのか。生まれてから今日までを全部。
「…分かりませんよ。絶対」
午後11時半。書斎の灯りが消えた。もう間に何もない。
天蓬は手を延ばして捲簾の手からグラスを取り上げた。
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