私生活

act9

 高校生の頃、乗っている電車が急停車した。
 夏で、夕方で、天蓬は混み出した車内で読書に没頭していて、乗客の騒ぎのせいではなく“どっぷり感情移入していた主人公が突然電車に飛び込んで自殺した”衝撃で我に返って顔をあげ、辺りを見渡した。
「どうかしたんですか?」
「…もう15分も停まってるのよ。事故かしら」
 たまたま天蓬と隣合わせた初老の女性は、いったい何をどうしたら今までこの非常事態に気付かずにいられるのかという驚愕を露わにしながらも、親切に教えてくれた。結局二十分遅れで電車は動き出し、無事駅に到着した。
 この奇妙な感じを、天蓬は突然思い出した。捲簾の前で。
 乗客は全員不満や不安を隠しもせず苛ついていて、血気盛んなのに至っては怒鳴り散らしていた。あの怒りは何だろう。天蓬が読書をやめて電車が動き出すのを待ったのは、厳密には5分間。しかしその5分で明らかに天蓬は苛立った。アナウンスがなかったから。
 仮に「電車が停まっているのは3つ先と4つ先の駅の間の踏切で乗用車が立ち往生したからで何時間も停車するような事故ではない」という情報があれば、大方の乗客は心穏やかに待っただろう。そのうちの何割かは怪我人がなくて良かったと安心しただろう。一旦把握し理解し得たものに対しては、人は優しくも寛容にもなれる。手がかりがないから、分からないから、苛立つし、怖がる。
 何故停まっているのか。いつになったら動くのか。自分の向かっている方向で何が起きたのか。
 これから何が起こるのか。


「そうかそうか、だからおまえは人生に寛容であるために知識を蓄え本をむさぼり読むのか。なるほどねーいやぁ〜納得。そのメガネは伊達じゃねえのな」
「誉めていただいて覆すのは甚だ惜しいんですがそんなポジティブな話してるんじゃないんです」
「どこも誉めてねえ」
「貴方の話です貴方の。ネガティブな貴方の」
 捲簾は、ひったくられたグラスにも、普通に会話するには近すぎるほどの距離にいる自分についてにも文句を言わず、手を延ばして天蓬のメガネをひょいと外した。
「…何です」
「いや別に。外したらどんな顔かしらと」
「……」
 うっかり次の捲簾のコメントを夜が明けるまで待ちそうになった。
「ああ話逸らされるところだった!その手にはのりませんよ」
「何が?」
「さっきの電車話は僕じゃなく貴方の話です。僕は貴方のことを何も知らないし、何考えてんのか何も考えてないんだか人がいいのか悪いのかふざけてんのか真面目なのか全然分からないし、分からないなら分からないでほっとけばいいものをどうしてこうも毎日毎日気になるのだろうかとずっと苛々悩んでいたんですが、ようやくその理由が分かりました」
 捲簾は口の中で「はあ」と言った。
「何で今まで分からなかったのかが分からねえ」
「そのとおり!つまり知らないから気になるんですよ。そうなんですよ。僕は何であれ目の前に知らないことがあるのが嫌な知識欲旺盛で我が儘な人間なんです。そもそも貴方が教授の甥御だというだけで、顔が似てるというだけで、背格好も似てるというだけで、他にも何やら色々似てるというだけで、僕は行き先はおろか飛ぶんだか潜るんだかも分かんない妙な乗り物についうっかり乗りこんじゃって情報もないまま苛々苛々させられてるんです。そもそも貴方の親友になってそのことによって教授の信頼をかちとりかけがえのない絆を築き上げるのが当初の目標なんです、そう、そこを見失ってはいけない!教授が僕を叩きのめしたのも貴方の親友になり損ねているせいです、何故なり損ねているかというとこうして苛ついてばかりいるせいです。貴方に関する情報さえあればすっきりして心穏やかに寛容に広い心で貴方と向かい合えるんです。そうに違いないので教えてください、貴方のこと全部!」
「違う」
 捲簾はあっさり言った。
 一気に喋りすぎてどこが違うのか分からない。おかしい完璧だと思ったのに。
「知ろうが知るまいが恋とは常に人の心を狭くするものだよ天蓬…」
 誰の真似だ。
「要するに俺に惚れたって話だろ?」
「要してない!何で貴方も教授も物事の順序を乱すんです、知ってから先の話でしょう好きとか嫌いとか友情とか恋愛とかは!」
 捲簾はしばらく、額がくっつきそうな勢いでまくしたてる天蓬の目をじっと見ていた。
「そういうことにしたいのか」
「…いやもう何が何だか」
「ところでメガネ取っても可愛いな」
 それはよかった。
「捲簾!教えてくれるんですかくれないんですか!愛する教授に罵倒されて、愛する教授が愛する甥におちょくられるこんな生活もう限界。僕が何をしたんです」
「可哀相にな」
 泣こうかな。
 鼻の上にすとんとメガネが戻ってきた。

「教えない」

 …今までこんなに誠心誠意ぶつかって足蹴にされたことがあっただろうか。
 そもそも誰かに何かを頼んだことがあっただろうか。
 捲簾が、何にも興味なさそうな捲簾が自分のことを4年も覚えていてくれて、用もないのに会いにきて、成り行きとはいえ自分を庇って怪我してくれたことで思い上がっていたんだろうか。もしかして捲簾にとっては本当に友達の「と」の域にも達していなかったのか。
「…何でですか」
「好きも嫌いも知ってから先の話っつったじゃん。おまえに嫌われるのがヤだから教えない」
 捲簾はいきなり立ち上がってカーテンを全開にし、身を乗り出した。
「やべ、叔父貴が来る。帰れ天蓬」
 ちょ…ちょっと待て。考える隙をくれ。
「泊めてくれるって言ったじゃないですか、なんで教授が来るからって僕が帰らなきゃ」
「今日はちょっと事情が怪しいんだよ。埋め合わせはするから帰れ。見たくねえだろ、俺とあいつのどろっどろの喧嘩なんか」
 す…凄く見たい。
「そんなこと言われたってもう終電ないです」
 捲簾は舌打ちして天蓬の腕を掴んだ。人の腕時計見るな。
「…わーった、話がすむまで下で待ってろ。絶対叔父貴に見つかんなよ」
 訳も分からず廊下に押し出された天蓬は、とりあえず階段を駆け下りて建物の裏に回り、入れ違いに足音も荒々しく階段を上っていく教授をやり過ごした。何だこの扱い。出張に行ったはずの旦那が突然帰ってきて庭に追い出された間男か。
「捲簾!開けろ!!」
 ドアを蹴ったとしか思えない轟音。確かに今日の教授はご機嫌は斜めだったが、何がどうして鬱陶しいほど仲むつまじいあの連中が喧嘩を。それともあれが普通なのか?
 天蓬は壁に凭れて息を継ぐと、捲簾がわざわざ投げて寄越した煙草に火を点けた。今晩はこの季節にしては冷え込むし、高い塀に囲まれた手入れもままならない庭は真っ暗だ。

 そういうことにしたいのか。
 か。

 天蓬は壁伝いにずるずる座り込んだ。土の匂い。
 そもそも教授のことだって、朝から晩まで教授教授で頭がいっぱいだったくせに、捲簾に言われるまでそれが恋とか恋もどきだなんてこれっぽっちも思いつかなかった。そんなだから、捲簾に興味があるのは確かだが、それが何なのか自分では判断できない。教授の親族でなければここまで気になったかどうか。対人間になると、どうしてこうも知識も経験も勘も足りないんだろう。
 捲簾が口に出す言葉は自分と正反対にいつも簡単で短い。彼に断定されると、何となくそんなような気がしてしまう。だからといって「要するに俺に惚れたって話だ」と言われて「そんなような気もします」というわけにいくか。例えそうでも。そんな、そんなあっさり叔父の次に甥にスライドなんてあまりにも安直というか悪趣味というか、いや悪趣味だ。父息子なら尚更だ。似すぎてる。
「…にしても」
 なんとなく足下に這ってきた蟻で遊びながら、天蓬は呟いた。
 嫌われるのが嫌。
 嫌われるのが嫌。
 嫌われるのが嫌。
 捲簾が言うことなんか当てにならないがもし本音だとして、自分に嫌われるのが嫌ということは。
 そうだ、捲簾はどうなんだ捲簾は。自分がどうでも捲簾がもし。
 天蓬は自分の思いつきに思わず飛び上がった。それなら大義名分がたつじゃないか。
「もしかして捲簾は僕のこと!」
「このクソじじい!!!」
 突如頭上から罵声が降ってきた。ほんとに喧嘩だ。天蓬はじりじり捲簾の部屋の窓の下まで回り込んだ。怒鳴りあってるのは分かるがセリフの内容までは聞こえない。やるならやるでもっと盛大にやれ。
 天蓬が真剣に廊下まで戻って聞き耳たてる算段をしだした途端、窓がピシャンと閉まった。

 …あの野郎。
 
 
  

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