私生活

act10


 
 天蓬言うところの「旦那」はドアを開けた捲簾を押し退けると、部屋の真ん中に立ってぐるりと360度回った。
「匂う」
 捲簾は灰皿を流しでひっくり返した。甘ったるい煙草吸わせやがって。
「さっきちゃんと帰した」
「本当か?」
 捲簾が部屋の唯一の収納扉を開けてみせると、ようやく叔父はさっきまで天蓬がいた場所に腰を下ろした。
「酒くれ」
 おいおいマジかよ。
 天蓬が世にも不可解な顔で母屋から戻ってきた時にこうなる事はある程度覚悟していたが、一晩中居座られたらどうしよう。春でよかった。
 捲簾は天蓬が使っていたグラスを申し訳程度に水でゆすいで酒を注ぎ、自分用に水を汲んだ。
「座れ捲簾。話がある」
「だろうな」
「分かってんならおまえからしろ。前ふりが面倒くさい」
 無茶言うな。
 酔いを少しでも覚まそうと顔を手を洗う間、捲簾は如何に短く話を切り上げられるかを一瞬でシミュレーションし、一瞬で諦めた。
「…俺と天蓬のことは俺と天蓬のことで、叔父貴には関係ねえと思うんだけど」
「誰に向かってなめた口きいてる。おまえのことは俺のことで、天蓬のことも俺のことだ」
 今のセリフほど叔父らしいセリフもないな。
 捲簾は溜息をひとつついて、できるだけ敵から遠い壁に凭れた。正面から目の奥を覗き込まれるといつも気圧される。
「なーんでそんな怒ってんのよ。叔父貴にしちゃ勘が悪いな、俺にも予想できたぜ。あんたに惚れるよーな悪趣味な奴が次に俺にきたって変でもなんでもねーじゃん」
「変だ」
 ここに来た時点で既にアルコールの匂いを漂わせていた叔父だが、一口でグラスを空けた後の歯切れも講義の真っ最中のようだ。
「天蓬のことはおまえより俺のほうがよく知ってる。天蓬はこういう事に関しちゃ赤ん坊だ。自分からアプローチなんかできるクチか」
「…そうね」
「おまえが余計なちょっかい出して煽ったに決まってる。何かしたろうが、天蓬がその気になるような事を」
 捲簾は生暖かい水を一口飲んだ。ちっとも酔いが覚めない。
「さぁどうだろう」
「どうだろうじゃない。からかうなら他の奴にしろ。天蓬は許さん」
 天蓬は「教授への甥っ子への愛情が滾るあまりとばっちりで憎まれた」とでも思ってるんだろうが、逆だ。
 信奉者を人にとられるのが嫌なだけだ。独占欲が強くて我が儘で自信家で最低な男。
 そして俺は、その息子。
「あんたは要するに世界中の誰もがあんたのことを好き好き言ってないと気にくわねえってだけだろ」
「悪いか」
 ああもういっそ清々しいよ。
 叔父の天蓬の扱いは、傍で見ていても巧いものだった。新入生が教授に特別扱いされれば誰だって舞い上がる。頭がきれて度胸もよくて、将来有望な優等生とくれば、この自尊心の塊みたいな男が手放したくなくなって当然だ。同じ煙草吸わせて同じ酒呑ませて同じ職につかせるなんざ、趣味悪いったらありゃしない。伯母に嫌われてる自分より天蓬のほうが、余程息子に近いかもしれない。何年もかけてじりじりと、こいつは天蓬をおとした。
「俺も天蓬もあんたのペットじゃねえんだよ」
「おーそーかそーか可愛いな。俺からみりゃ似たようなもんだ」
「クソジジイ」
「おまえが勝てるのはせいぜい若さだけだ」
 ここに至って捲簾は、ようやく窓が全開なのに気が付いた。
 冗談じゃない、こんな話聞かれてたまるか。天蓬にとっては叔父は理想の男だ、あいつがそれでいいならそれでいい。
「とにかく!」
 言いながら窓をバンと閉めたが、叔父はちょうど延びた灰を落とすべく灰皿を探していて、窓が閉まったことについては特にコメントはなかった。コメントがないからといって、何も気付いてないとも言いきれないところが厄介だが。
「天蓬はまだ俺をあんたの付属品としか思ってねえし、俺もあんたの付属品としか思ってねえよ。それで安心したらとっとと帰って寝ろ。俺ならともかく、いつまでも天蓬をあのまま飼っとけると思うなよ。いくらなんでも一生教授にぞっこんって訳にいくか、馬鹿じゃねえんだから」
「相手がおまえじゃなきゃいい。おまえだから気にくわん」
 捲簾は、月明かりだけの部屋で長々と叔父の吐き出す煙の行方をぼんやりと目で追った。
「…俺、叔父貴に好かれてんのか嫌われてんのか本気で分かんなくなってきた」
「来い。ここ」
 床をコンと指で弾かれて、立ちっぱなしだった捲簾は、叔父の目の前に引きずられるように座った。
 感受性、のようなものが、どうやら自分には欠けているらしい。何を見ても聞いても現実感がない。感動したり動揺したりすることもない。あの日以来、ただの一度も。
 叔父だけだ。簡単に揺さぶるのは。
「おまえがどれだけ生意気だろうが病んでようが、俺はおまえをこの世の誰よりも愛してる」
 ……ほんとに何を言いやがる。
「が、憎んでもいる。おまえがいると苦しい」

 おまえがいると苦しい。

 甘ったるい匂いがする叔父の指が、捲簾の髪をふっと梳いた。
「自分でもよく分からん。何だか色々思いすぎる。おまえのことは可愛いし怖い。色々だ」
 喉に空気がひっかかって痛い。捲簾は何度も唾を飲み込んで、言った。
「俺も」
 あんたがいると苦しい。逃げないのか逃げられないのか分からない。



「死んでんのかよ」
 耳にふっと息を吹き掛けられて、天蓬はようやく目を開けた。壁に凭れて座り込んだ自分の横で、捲簾が頬杖をついていた。
「……うわ、え、寝てましたか僕。信じられない」
「俺も信じられねえ。悪いな長引いて。怒って帰ったかと思った。平気か?風邪ひくぞ」
 見下ろした時計は2時前を指している。ということは、1時間強はぐっすり寝ていた計算だ。酔ってたとはいえ図書館と家以外でここまで熟睡するなんて。地面からじわりと冷気が這い上がってきて、天蓬は両手を摺り合わせた。
「ああ、そうだ!喧嘩はどうなりました?」
 返事に一瞬間があった。
「…終わった。立てるか?」
 そりゃ確かに、終わったから来たんだろうが。
 立ちあがるのに捲簾の手を借りかけて包帯に触れ、思わず引っ込めた。
 …何か変だ。今朝図書館で見た時と似た違和感。
「捲簾。大丈夫ですか」
「は?おまえだろそりゃ」
「いえ貴方。なんか…変な顔してますよ」
 酷く頼りないような。暗くてよく見えないが、縋るのもためらわれるほど。教授と何があった。
 天蓬は、恐る恐る手を延ばして怪我のないほうの手を握った。
「捲簾」
 突っ立ったままの捲簾からは何の反応も返ってこない。さっきとまるで別人だ。少し力を込めて引っ張ると、捲簾は人形でも引き寄せたように呆気なく膝をついた。
「…捲簾?」
「……ちょっと…」
 捲簾の額がトンと左肩にのった。額も、思わず支えた腕も焼けそうに熱い。
 深夜の虫の声に紛れそうな、それこそ息を吐くような声が「ちょっと休ませて」と言った。
「…あいつと喋ると疲れる」
 捲簾をどうにかできるのは、結局教授しかいないのか。

 もう限界。もう本当に限界ですよ捲簾。こんな生活。

 知らないまま、何も知らないままこの男から降りずにいたらどれだけ辛いか、想像しただけで吐きそうだ。
 さっき自分は何を考えた。捲簾のほうから言ってくれれば大義名分がたつ。自分への言い訳ができる。いつもいつも考えてたのは言い訳ばかり。教授に似てるから。知らないから。知ってから先の話でしょう、好きとか嫌いとか。
 背中に捲簾の指が触れた途端、背筋を電流のように快感が駆け上がった言い訳ができない。気持ちよすぎて涙が出そう。
「…捲簾。僕」
「今言うな」
 どこまで勝手だ。
「なんでいつもいつも貴方の都合にばっか合わせなきゃなんないんです!今言いたいんだから言いますよ、貴方が好」
 言う前に凄い早業で塞がれた。
「…………」
「話を聞いてからにしろ。素の俺にここまで辛抱強く付き合った偉業に敬意を表して全部話してやる。後悔すんな」
 捲簾は早口に言うと、うってかわってやけにさっぱりした顔で、膝の土を払って立ち上がった。
「復活!」
「…早」
 舌に噛みつく暇もない。
 
 
 

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