− コラム 音速の貴公子 −
1996年1月5日、1回 京都1日目 7R 新馬 芝1800mでデビュー。
年が明けた最初の京都競馬場の開催で、フサイチコンコルドはデビューした。
後日、ある競馬雑誌を見た私はこの馬の勝ち方に興味を覚えた。正確に表現すると衝撃が走った。
そこには、父Caerleon、母Ballet Queen、母父Sadler's Wells、Northern Dancerの3×3のインブリード、
という一流馬となるべくして産まれた血統が載っていた。
フサイチコンコルドは海外で種付けされ日本で産まれた為、父がCaerleonであっても内国産としてデビューすることが出来た。
当時、日本では父Sunday Silenceの仔の活躍が目立っていた。
1995年の朝日杯3歳S(GI)は、父Sunday Silenceのバブルガムフェローが優勝(その後故障し4歳3冠レースには不出走)。
また暮れのラジオたんぱ杯3歳S(GIII)では、1着ロイヤルタッチ(皐月賞2着、ダービー4着)、
2着イシノサンデー(皐月賞1着、ダービー6着)、3着ダンスインザダーク(ダービー2着)と独占していた。
そんな中で父Caerleonの仔に注意を払うことなど考え辛かったが、注目すべき点は血統以外にもあった。
それは上り3ハロンである。フサイチコンコルドの上り3ハロンは34秒台で、更に全て11秒台であった。
生涯で最初で最後となるかもしれない衝撃が走った。「この馬は今年ダービーを制する」と...
当然、次走が気になる私は毎週フサイチコンコルドが出走しないかチェックを入れていた。
そんな中、2戦目に選ばれたのがデビュー2ヶ月後の、1996年3月9日、1回 阪神5日目 9R すみれS(OP) 芝2200mであった。
この時既に皐月賞トライアル弥生賞で後のライバルとなるダンスインザダークが勝っていた。
皐月賞は4月14日に行われることとなっていたのに、2戦目に3月9日のレースしかもオープンを選択してきたので理解しがたいものがあった。
普通であれば、皐月賞に出る為には賞金を稼いでおかないと抽選待ちということになってしまう。
しかし、ここには理由があった。フサイチコンコルドはこの2戦目も1番人気にこたえ快勝することとなった。
デビュー戦と同様、上り3ハロン34秒台であった。
2戦2勝となったフサイチコンコルドはどうにか皐月賞への出走は可能な賞金を獲得していたが、皐月賞に出走することはなかった。
フサイチコンコルドはその強烈なインブリードの為か、逆体温(昼に体温が下がる)で熱発を繰り返すという弱い体質であった
(フサイチコンコルドを評する時、この言葉が必ず出てくる)。関係者は、皐月賞には目もくれず目標を日本ダービーとした。
ダービーに出走する前に3戦目に選ばれたのが、1996年5月11日、3回 東京7日目 10R プリンシパルS(OP) 芝2200mであった。
このレースはダービートライアルに指定されており、2着までが優先してダービーに出走することが可能であった。
が、この時、フサイチコンコルドは輸送で熱発。出走することが出来なくなった。このレースを勝ったのはダンスインザダーク。
この馬も熱発を発生し皐月賞に出走することが出来なかったが、このレースを勝ったことによりダービーでは1番人気となる。
フサイチコンコルドは、たった2戦でダービーに向かうこととなった...
1996年6月2日 4回 東京6日目 9R 東京優駿(GI) 芝2400m 晴れ 良馬場
賞金が微妙であったフサイチコンコルドだが、なんとか出走枠に入ることが出来た。
しかし2戦しかしていない馬に高い評価が得られることはなく、1番人気ダンスインザダーク、2番人気ロイヤルタッチ、
3番人気イシノサンデー(全て最終人気)とSunday Silence産駒に注目が集まっていた。
レース開始の2日前の金曜日。
ダービーの馬券はWINS後楽園にて金曜日から前売りが開始されていた。
私はダービーと有馬記念をこの金曜前売りで買うことが習慣となっており、この時も同じように後楽園に向かった。
そして、買う馬券は当然フサイチコンコルドであり、単勝を1点だけ購入した。
この時点では、フサイチコンコルドの単勝は16、17倍あたりであったが...
レース開始の前日の土曜日。
フサイチコンコルド熱発のニュースが流れる。またか、またなのか、いよいよ本番であるのに。
当然のごとく単勝の倍率が上がっていく。(おかげで大変なことになったが)
レース当日。
私はテレビ観戦となった。パドックではたった2戦しかしていない若駒らしくなく、とても落ち着いた様子だった。
この時多くの人間がフサイチコンコルドが勝つとは思っていなかっただろう。
テレビ画面に映し出される映像はSunday Silence産駒ばかりであった。
1番人気ダンスインザダークに騎乗の武豊騎手はこれまでいくつかのGIを勝っていたが、まだダービーを勝ってはいなかった。
今回がその最大のチャンスと言われていた。
この時フサイチコンコルドの単勝は27倍、7番人気となっていた...
ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。
フサイチコンコルドは少し出遅れる。
彼は13番枠からのスタートで他の各馬の後ろからするするとインコースに滑り込むように1コーナーを目指した。
レースはサクラスピードオーがハナに立ち、やや縦長の状態で進んだ。
フサイチコンコルドはうまくインコースに入り込めた為、ダンスインザダークの直後の5、6番手につけてレースを進めていた。
4コーナーを回りダンスインザダークが早くも先頭に立つ。
そしてその直後にフサイチコンコルドが外から音速の末脚を繰り出し、独走体制に入り誰もが勝ったと思ったダンスインザダークに並びかけ、
遂にはゴール50メートル前でかわした。
ゴール板に入ると同時に騎乗していた藤田伸二騎手が高々と右手を挙げていた。
その時、テレビの映像が乱れていた...なぜなら、私の眼には...
オーナー関口房朗(ふさお)さんから付けられた冠名フサイチ、超音速旅客機コンコルドから付けられた。
3歳戦が行われるようになった1946年以降では3戦目の優勝は初めて。
前走すみれSから85日目の勝利は最長。
無敗のダービー馬は、フレーモア、ガヴァナー、クリフジ、トキノミノル、コダマ、シンボリルドルフ、
トウカイテイオー、ミホノブルボンに続き9頭目。
前年に2戦で英ダービーを勝ったラムタラがいた為、「和製ラムタラ」とも言われた。
|