さて我ながら、細かい議論を延々としてきたので、読者のみなさんも読むのに疲れきったのではないかと内心忸怩たる思いもあるが、性格上議論をきちんと詰めないと落ち着かないという欠点があり、私の趣味に任せて議論しているだけのことなので、適当に読み飛ばしていただければ幸いに思います。どうせ私の議論など、他の人が同じような方法で研究すれば、似たような議論になることばかりで、特に目新しいものなど殆どないと私は思っている。
私自身の曼荼羅正意選択の理由を挙げるにあたって、議論の筋道をあらかじめ示しておくと、1、日蓮自身の本尊論は曖昧であるということを示し、2、それにもかかわらず日蓮正宗ならびに創価学会に大きな影響を与えた日興は、曼荼羅正意説に大きく舵を切ったことを示し、3、次に宗教の発展の一過程として日興の事例並びに日蓮に仮託した御書の作成問題の理由を考察し、4、現代の文化状況の中で曼荼羅正意説を採用することのメリット、デメリットを検討し、5、当面の暫定的な方針として曼荼羅本尊正意説を採用すべきことを主張する、ということになろう。
私が日蓮の本尊論に関する著作で最も重視している『本尊問答抄』には、法勝仏劣の思想が表面的には明確にあるが、優陀那日輝のように『本尊問答抄』は「未顕真実・随他意」の「対機説法」であるので、重視するべきではないという批判もあり、優陀那日輝の議論に対してはそれなりに反論を加えておいたが、その反論が成功していると判断していただけるかどうかはよく分からない。一番の問題は日蓮が『本尊問答抄』において「法華経の題目」に関して説明をしていないということが挙げられる。もし「上行付属の法華経の肝心たる題目」などという表現がされていれば、仏は所生、法華経は能生という議論において、その仏は始成正覚の迹門の仏を指すという解釈の余地はなくなるのに、本迹の議論が全くないということが優陀那日輝のような解釈を許容していることは否定できない。次に開眼供養の議論が途中に入っているが、全体の文脈の中で、どう位置づけたらいいのか論旨不明であるという問題もある。ここは明らかに説明不足であり、この部分によって法華経によって開眼供養すれば、仏像も本尊になると読解したとしても、それを読者の誤解だとは言えないだろう。
このように『本尊問答抄』は明らかに説明不足があり、正反対の解釈を許容する著作ではあるが、本尊に法本尊と仏本尊との区別があり、両者の勝劣関係を述べた唯一の日蓮の著作であるという希少性は否定できない。本尊に関する他の著作は両者を本尊としてあげるけれども、その関係については何も述べていないという共通性がある。本尊に関係しない法華経と仏との関係においては、能生・所生の議論を使用した法重の思想を表現した著作もあるが、他方では法華経と仏との一体性を強調する著作もあり、日蓮の思想がいずれであったのかを決定することはできない。
さらに重要な問題として、宗教運動の指導者としての日蓮は自分の宗教理論を遵守するよりも運動の円滑な展開を重視していたようだということがある。初期の本尊論の著作である『唱法華題目抄』では「法華経」「題目」を安置し、余力があれば左右に「釈迦多宝のニ仏」を安置せよという指示をしていた。伊豆流罪前の状態は分からないが、『神国王御書』によれば鎌倉の松葉が谷の庵室には釈迦仏像が中心に安置され、法華経は一切経の一部としてその周辺に安置されていた。その釈迦仏像の由来については、信頼できる日蓮の著作では何も述べられていないので、なぜ中心に安置されたのかの理由も分からない。『忘持経事』により身延の庵室においても釈迦仏像が安置されていたことは明白であり、それは『本尊問答抄』が書かれた後も変化がなかったと思われる(『忘持経事』の後で『本尊問答抄』が書かれ、それ以後の身延の本尊安置様式に関する記述がないのであくまで推測するしかないのだが)。『本尊問答抄』が書かれた後で、四条金吾やその妻日眼女が釈迦仏像を造立したときには、日蓮はそのことを大いに賞賛しており、これを知っている出家の弟子や在家信者は釈迦仏像を本尊とすることが日蓮によって積極的に容認されていると考えても当然であろう。このような日蓮の実際の本尊安置様式を知っている人から見れば、釈尊を本尊とすることは何の問題もないことであり、同時に曼荼羅が授与され、1紙の曼荼羅であれば、「御守」としての機能を持っていたであろうが、3枚綴り以上の曼荼羅が圧倒的に多いということは、その曼荼羅を集会などで本尊として奉掲する(小規模な曼荼羅は個人宅で、大規模な曼荼羅は道場で)という意図があったものと推定できる。事実上釈迦仏像と曼荼羅の2種類の本尊があったが、『本尊問答抄』を除外すれば、両者の関係については何も説明されずにいたと推測できるから、日蓮の弟子、檀那は両方を本尊として信仰生活を送っていたと推測してもよいだろう。私が日蓮の本尊論が曖昧だとするのは、『本尊問答抄』では仏像よりも曼荼羅を重視するように解釈できるのに、日蓮自身もそれを遵守せず、弟子たちにもそれを遵守させようとしていなかったという実際の本尊の取り扱いの問題を指している。曖昧なことは決して否定されるべきことではなく、信仰の多様性を容認する重要なことであるかもしれないのである。
『本尊問答抄』には日興写本があり、日興周辺で作成された『富士一跡門徒存知事』では「聖人御書」として挙げられる10の著作の一つとして重要視されている。また冨木常忍の『常修院本尊聖教事』には「御書箱」に『本尊問答抄』が記載されているから、中山には写本が存在していたことが確認できる。日蓮の死後、老僧たちはそれぞれ信者に曼荼羅を書いて授与したが、『本尊問答抄』を重要視したのは日興門流だけであったようだ。
日興の曼荼羅正意説を裏付ける資料は『原殿御返事』の次のような記述である。
「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊、久遠実成釈迦如来の画像は一二人書き奉り候へども未だ木像は誰れも造り奉らず候に入道殿御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に御用途も候はず、大国阿闍梨の奪ひ取り奉り候仏の代りに其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給ひて固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は責めて故聖人安置の仏にて候はば、さも候なん、それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏にて候き、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候ぬ、なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給ひ候べき、御力契ひ給はずんば御子孫の御中に作らせ給ふ仁出来し給ふまでは聖人の文字にあそばして候を御安置候べし、いかに聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊の木像を最前には破らせ給ふ可きと強ひて申して候しを軽しめたりと思し食しけるやらん、日興はかく申し候こそ聖人の御弟子として其の跡に進んで帰依し候甲斐に重んじ進せたる高名と存じ候は、聖人や入り替らせ玉ひて候ひけん、いしくも諂曲せず且つ経文の如く聖人の仰の様に諌め進らせぬるらせたる者かなと自賛してこそ存じ候へ。」
冒頭の修飾語「日蓮聖人御出世の本懐」がどの語句を修飾しているのか、判断しかねるところであるが、一般には「教主釈尊、久遠実成釈迦如来」を修飾していると見なされているが、その前の「南無妙法蓮華経」を修飾しているとする法重の解釈もありうる。どちらであるのかは、文脈によっても決定されないので、不明であるとしておくしかないであろう。この文章で分かることは、波木井実長が、身延の墓所の寺にあった日蓮の所持仏を日朗が持ち去った後に、その代わりの仏像を造立したいと希望を表明したときに、日興が日ごろ「御用途も候はず、大国阿闍梨の奪ひ取り奉り候仏の代りに其れ程の仏を作らせ給へ」と教訓して、経済的余裕ができてから、日朗が持ち去った日蓮の所持仏と同じような仏像を造立しなさい、と中途半端な仏像造立を制止していたことを述べる。これは日蓮が四条金吾や日眼女の一体仏を賞賛したことに比べると違いが大きい。日眼女はわずか三寸の大きさの一体仏を造立しただけでも日蓮から賞賛されたのに、日蓮の所持仏がどれほどの大きさであったかは不明であるが、それなりの大きさの仏像を造立する経済的余裕ができるまで待てと日興は制止している。波木井実長が希望したのは、日眼女のような個人の自宅の部屋に安置するような小さな持仏ではなく、身延の墓所の寺に本尊として安置する仏像であったと文脈から推定できるから、日興が寺の本尊としてふさわしい規模の仏像を造立する経済的余裕ができるまで待てと制止したことにもそれなりの説得力があったろう。
さらに日興は単にある程度の規模の仏像を造立するようにアドバイスするだけではなく、「責めて故聖人安置の仏にて候はば、さも候なん、それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏にて候き、」と述べて、日蓮の所持仏ならよいがと言いながらも、その日蓮の所持仏でも四菩薩の脇士がないから「始成の仏」になると『観心本尊抄』などの議論を念頭に、一体仏の造立に対しては反対を表明し、四菩薩の造立も同時に行うべきだと、波木井実長の経済状態を考えれば、無理難題を吹きかける。そして結論として「御力契ひ給はずんば御子孫の御中に作らせ給ふ仁出来し給ふまでは聖人の文字にあそばして候を御安置候べし」と述べて、波木井実長の希望を拒否し、子孫に経済的余裕ができるまで、曼荼羅を(寺に)本尊として安置するように指導する。そしてこのように強い態度で指導したことを「聖人や入り替らせ玉ひて候ひけん」と自画自賛する。
寺尾英智の「中世日蓮宗寺院における造像活動について」という論文がPDFファイルでネットに掲載されているが、それによると現在の藻原寺に発展する妙光寺の本尊は、まず釈迦・多宝のニ仏が造立され、その後四菩薩が造立され、最後に中尊の題目宝塔が造立され、一塔両尊四士が完成して、諸仏を仏堂に安置して、入仏供養をしたことが述べられているが、これらの仏像造立は数世代にもわたる長期的な事業であったことが記録されているという。このように経済状態に応じて、少しずつ仏像を造立することはよくあることなのに、日興は頑なに一尊四士の同時造立を要求したようだ。日蓮であれば、脇士四菩薩の造立が大事だとは知りながらも、釈迦仏の造立だけでも賞賛したであろうに、日興は釈迦仏一体のみの造立を否定している。
日興が波木井実長の釈迦仏造立を制止したことは事実であろうが、そこから日蓮正宗のように、仏像造立制止、曼荼羅正意説まで深読みすることは困難だと思う。この『原殿御返事』では子孫に経済的余裕ができれば、一尊四士の造立を認めているから、素直にそれが日興の見解であると認めるべきであろう。ただこのことで分かったことは、日蓮は仏像造立に関して、自説、すなわち『観心本尊抄』の一尊四士造立にそれほどこだわらなかったが、日興は『観心本尊抄』の議論にこだわったということである。
日興は神社不参に関しても『立正安国論』の神天上の議論にこだわって、神社参詣を否定したが、日蓮の場合はどうだったのだろうか。当然主君が神社参詣するときに在家信者がそのお供として一緒に参詣することは、公務であるから、禁止しなかったと思われる。また在家信者の池上兄弟も作事奉行の家柄であるから、弘安4年の鶴岡八幡宮寺の宝殿が焼失したあとの、再建事業に公務として関わったであろうが、それを禁止することもなかったと思われる。また竜の口の法難のときに、鶴岡八幡宮寺で、八幡大菩薩を叱咤したことが『種種御振舞御書』で述べられているが、もし『立正安国論』の神天上の議論が正しければ、鶴岡八幡宮寺には八幡大菩薩は不在であるはずなのに、日蓮が叱咤したということは(日蓮のこの行為は鎌倉幕府に対するパフォーマンスであるという深読みの解釈をしている作家もいるようだが)日蓮自身が『立正安国論』の神天上の議論を遵守していなかったということを示していると思われる。ここでも日蓮の自説に対する曖昧性が示されているが、日興は『原殿御返事』で頑なに『立正安国論』の神天上の議論を盾にして、神社参詣を謗法と断定する。日蓮自身が謗法と断定していたならば、日興もその事例を指摘すればよいだけのことであるが、その事例がなかったから『立正安国論』を盾にするしかなかったと思われる。
日興は、日蓮がどういう行動をしたかを判断基準にして、教義的問題に関して判断しているわけではなく、むしろ日蓮が書いたもの、例えば『立正安国論』『観心本尊抄』を判断基準にして判断しているから、日蓮がどういう行動をとったかを見聞していた他の弟子や檀那は違和感を覚えた可能性もある。『原殿御返事』にはこの辺の経緯を次のように述べている。
「弥三郎殿念仏無間の事は深く信仰し候い畢んぬ、守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審未だ晴れず候。其の故は鎌倉に御坐し候御弟子は諸神此の国を守り給う尤も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらるるの条、日蓮阿闍梨は入滅候誰に値てか実否を決すべく候と、委細に不審せられ候の間、二人の弟子の相違を定め給うべき事候。師匠は入滅候と申せども其の遺状候なり、立正安国論是れなり。 私にても候わず、三代披露し給い候と申して候いしかども、尚お心中不明に候いて御帰り候い畢んぬ(中略)民部阿闍梨に問わせ給い候いける程に、御返事申され候ける事は、守護の善神此の国を去ると申す事は、安国論の一遍にて候えども、白蓮阿闍梨外典読みに片方を読みて至極を知らざる者にて候、法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし、尤も参詣すべしと申され候いけるに依つて入道殿深く此の旨を御信仰の間、日興参入して問答申すの処に、案の如く少しも違わず、民部阿闍梨の教えなりと仰せ候いしを、白蓮此の事は、はや天魔の所為なりと存知候いて少しも恐れ進らせず、いかに謗法の国を捨てて還らずとあそばして候守護神の、御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会すべしと候は、師敵対七逆罪に候わずや、加様にだに候に、彼の阿闍梨を日興帰依し奉り候わば其の科日興遁れ難く覚え候。」
波木井実長は「念仏無間地獄という教義は信仰しているが、神天上の教義は納得できない、鎌倉の弟子(日昭、日朗か)は参詣してもよいというし、身延の弟子(日興)は参詣してはいけないと言う。日蓮に直接聞きたいがもう亡くなっているので、どちらが正しいか分からない」ということを日興に述べたら、日興は『立正安国論』を盾にして神社不参を主張した。それでも不審が晴れないので、日向に尋ねたら、「日興は『立正安国論』を盾に取り、それはそれなりに正しいけれども、日興は『法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし』ということを知らないのだ、参詣してもよい」と説明したので、波木井実長は日向の説明に納得して、神社参詣をした。それに対して日興は「いかに謗法の国を捨てて還らずとあそばして候守護神の、御弟子の民部阿闍梨参詣する毎に来会すべしと候は、師敵対七逆罪に候わずや」と述べて、あくまでも『立正安国論』の議論にこだわり、日向を「天魔の所為」「師敵対」「七逆罪」とまで断罪する。鎌倉の弟子や日向は、日蓮が鶴岡八幡宮寺で八幡大菩薩を叱咤したという事例をもとにして、「法華の持者参詣せば諸神も彼の社壇に来会すべし」と判断したのだろうし、また『諌暁八幡抄』(この著作の真蹟の一部は大石寺にあるから、日興もその内容を知っていた可能性がある。)で「八幡大菩薩は本地は月支の不妄語の法華経を迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。」という文章も念頭にあって(この議論は『立正安国論』には存在しなかった議論である)、法華経の行者の頭に八幡大菩薩が降りてくると主張したのかもしれないが、日興は日蓮の事例ではなく、『立正安国論』という教説によって、しかも『諌暁八幡抄』の議論を無視して、謗法と判断した。
波木井実長を信仰に導いたのは日興であり、日興が初発心の師匠であることは明らかであるが、日興の教導に納得のいかない波木井実長は、「我は民部阿闍梨を師匠にしてる也」とまで述べて、日興との師弟関係を解消する。これに対する日興の対応は「さては法華経の御信心逆に成り候いぬ、日蓮聖人の御法門は、三界の衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておわしまし候を捨てて、阿弥陀を憑み奉るによつて五逆罪の人と成りて、無間地獄に堕すべきなりと申す法門にて候わずや、」というものだったが、初発心の日興を捨て、日向を師匠にすることが、どうして釈迦仏を捨て阿弥陀仏を信仰することと同様なことになるのか、私には分からない。日蓮の初発心の師匠は道善房であったろうが、日蓮は仏教研鑽の末に初発心の師匠である道善房を捨てたことは明らかであるから、初発心の師匠を捨てることが、五逆罪になるというのは私には言いがかりに過ぎないと思われる。日蓮は、法縁、俗縁、地縁などを考慮して、それぞれの在家信者に対して相談、指導する師僧をある程度固定していたと思われるが、在家信者がその師僧を変えてはいけないと述べている著作の存在を私は知らない。だから初発心に関する日興の考えは日蓮の考えとは同じであるとは言えないと思う。
日興は初発心の師弟関係を重視して、例えば『本尊分与帳』には六老僧の一人蓮華阿闍梨日持に関して「松野甲斐公日持者、日興最初弟子也、而経年序後給阿闍梨号被召具六人内、蓮華阿闍梨是也、聖人御滅後背白蓮五人一同天台門徒也トナレリ」と記してある。日持からすれば、確かに日蓮仏法を初めて教えてくれたのは日興かもしれないが、その後の修行によって直接日蓮の弟子として認められ、六老僧に選任されたのに、日興と意見が合わなくなったからといって、「背白蓮」という言い方はないだろう、少なくとも日蓮の直弟子として認められた段階から、日興との師弟関係は解消されたのだからという反論が可能だろう。日興は日持の弟子であった太夫房(日教か)、治部房(日位)をも自分の弟子と見なしている。「日興申与」とあるから、日興の仲介によって、日蓮から曼荼羅授与がなされた可能性があるが、その二人についても「背了」として断罪している。太夫房、治部房にしてみれば、初発心の師匠は日持であり、日持と日興の意見の対立が生じたときに、初発心の師匠である日持に従っただけであり、「初発心の師匠」を捨ててはいけないという『原殿御返事』の日興の意見を忠実に守っているだけだと反論したら、日興はどう答えるべきなのだろうか。日興の回答として可能なものは、重要なことは初発心の師匠に従うかどうかではなく、日蓮の教えに従うかどうかだということにならざるをえないだろう。そして日蓮の教えとは何かについて弟子たちの間に見解の相違が生じたときに、大まかに言って、日興は日蓮の著作に判断基準を求め、他の弟子たちは日蓮の事跡に判断基準を求めたということになるだろう。
日興は修行論に関しても他の老僧とは異なった見解を持っていたようだ。『富士一跡門徒存知事』には次のように述べている。
「一、五人一同に云く、如法経を勤行し、之を書写し、供養す、仍つて在在所所に法華三昧または一日経を行ず。
日興が云く、此くの如き行儀は是れ末法の修行に非ず。又謗法の代には行ずべからず。之に依つて日興と五人と堅く以て不和なり。」
日興が認めた修行がどのようなものであったかは詳細には不明ではあるが、『月水御書』には「殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出してもあそばし候べく候、」とあり、日興も方便品寿量品の読誦を僧侶に義務づけていたことは、三位日順の『五人所破抄』で「天目の云く、巳前の六人の談は皆以て嘲哢すべきの義なり但し富山宜しと雖も亦過失有り迹門を破し乍ら方便品を読むこと既に自語相違せり信受すべきに足らず、若し所破の為と云わば弥陀経をも誦すべけんや云云。」という非難に反論して、方便品読誦を擁護していることからも分かる。しかし「如法経」「法華三昧」「一日経」については、日蓮が身延において「如法経(書写行)」「一日経」を修したことは『地引御書』にも書かれていることだから日蓮の事跡として確認できるし、「法華三昧」に関しては不明である。五老僧が如法経、一日経を修行として実行していたことは、日蓮の事跡を基準にする限りは全く問題のないことであり、『月水御書』には「別に書き出してもあそばし候べく候」と書写行を勧めているのであるから、日興の見解こそ受け入れ難いものであったろう。私は末法の修行というなら、方便品寿量品の読誦も不要で、ただ題目を唱えるだけで十分だという日蓮の指示に従うこともありだと思っているが、日興はそこまでは主張していない。日蓮が実行し、著作でも禁止していない書写行を、末法の修行でないとして否定する日興の態度に五老僧も違和感を覚えたであろう。
本尊論に関しても同じことが言えるだろう。身延離山の時期の『原殿御返事』では一尊四士の同時造立を認めていた日興であるが、その後大石寺、重須へと移住して、ある程度日興門流も大きく発展した後でも、日興門流では一尊四士の造立はなかった。日興の晩年に日興周辺で作成されたと推測されている『富士一跡門徒存知事』では次のように述べられている。
「一、本尊の事四箇条。
一、五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉るべし、とて既に立てたり。随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云。而る間・盛に堂舎を造り、或は一躰を安置し、或は普賢・文殊を脇士とす。仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又は堂舎の廊に之を置く。
日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず。唯御書の意に任せて、妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべしと。即ち御自筆の本尊是れなり。
一、上の如く一同に此の本尊を忽緒し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り。或は又沽却する族も有り。此くの如く軽賤する間・多分は失せ畢んぬ。
日興が云く、此の御本尊は是れ一閻浮提に未だ流布せず。正像末に未だ弘通せざる本尊なり。然れば則ち日興門徒の所持の輩に於ては左右無く子孫にも譲り、弟子等にも付嘱すべからず。同一所に安置し奉り、六人一同に守護し奉るべし。是れ偏に広宣流布の時・本化国主御尋ね有らん期まで深く敬重し奉るべし。(後略)」
私はこの記述内容についてはいくつかの疑問を持っている。五老僧の何人かは曼荼羅を書いたことは明らかであるが(直弟子の曼荼羅で現存するもので最も古いのは、日蓮死後AN6年の4月8日の仏生会に日朗が書いた曼荼羅で、日興の曼荼羅は同年10月の日蓮の命日のときに書写したものが残っている)、『富士一跡門徒存知事』は全くそのことに言及していない。正確には五老僧は釈迦仏と曼荼羅との両方を本尊として認めたのである。五老僧が曼荼羅を本尊として扱ったということを無視することは、その次の「一同に此の本尊を忽緒し奉るの間・或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り。或は又沽却する族も有り。此くの如く軽賤する間・多分は失せ畢んぬ。」という記述につながる。日蓮真蹟の曼荼羅は数多く現存しているが、それは五老僧が曼荼羅を大切にすることを指導していたからこそ、現存しているわけで、「或は曼荼羅なりと云つて死人を覆うて葬る輩も有り」ということが事実としてあったのかどうかは確認できない。「或は又沽却する族も有り」ということに関しては、日蓮の曼荼羅が尊重されたからこそ、買手がつくのであり、曼荼羅を所有していた者の中には経済的事情で売却した者もいたであろうし、あるいは池上氏のように退転した場合には、不要になったので売却するということもありえたかもしれない。日興門流でも大石寺の大檀那である南条時光に授与された曼荼羅が、現在埼玉県の日蓮宗の寺院に安置されているが、これは南条氏の没落と経済的困窮によって説明されるかもしれない。
次に五老僧の系統で、「普賢・文殊」を脇士としている釈迦仏が造立されたという事実に関して、私は確認できていない。釈尊の一体仏が造立されたことは、いくつかの記録に見られるが、「普賢・文殊」を脇士とすることは、『観心本尊抄』が日蓮門下全体で尊重されたことを考えれば、ないだろうと思われる。普賢・文殊の造立だって相当に経済的負担になるだろうが、『観心本尊抄』で否定されている菩薩像の造立をわざわざする理由が見当たらない(もっともかなり後になってからであろうが、一塔両尊四士の造立の後で、さらに追加して普賢・文殊の造立はあった)。次に「聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り、又は堂舎の廊に之を置く。」に関していえば、仏像を前面に安置すれば、曼荼羅はその背後に安置することになるのは自然だろう。日蓮正宗においても日蓮御影を前面に安置し、曼荼羅がその背後にあって見えにくいという事例はあったのだから、このことを非難する理由はないだろう。
後半の「又は堂舎の廊に之を置く」という記述が指している状態についてはよく分からない。「堂舎の廊」とは現在のわれわれの感覚では寺院の建物と建物とを結ぶ廊下というイメージがあり、廊下に曼荼羅を安置するとは不敬だというように思われるのだが、ネット検索すると「仏堂のお話」というHPに「金堂は須弥壇が一杯に築かれ、金堂は仏像を安置する大型仏壇のようなものでした。仏の占有区間は金堂だけでなく回廊そのものが仏の占有空間で僧といえどもむやみに立入は出来なかった」という寺院建築様式の解説があったが、鎌倉時代の寺院にもこの解説が適用できるかどうかは分からないが、「廊」を単なる通行のための「廊下」と考えてよいかは分からない。「廊」が聖なる空間として認識されていたなら、そこに曼荼羅を安置することは仏堂の中心本尊としての扱いではないけれども、必ずしも不敬になることはないだろう。日蓮宗蓮城寺のHPの「本門の本尊」の項に「妙法山蓮城寺の本尊勧請形態は、宗定大曼荼羅御本尊であり、その前に一塔両尊四士を奉安しています。またその本堂須弥壇の真後ろの回廊にある納骨堂の祭壇では、同じく宗定大曼荼羅御本尊と一尊四士を奉安しています。」とあり、回廊が納骨堂という聖なる空間であり、そこに曼荼羅を安置していることを述べている。
次に日興は曼荼羅のみを本尊として認めたと書いてあるが、これは日興門流に仏像造立の事実が認められないということから、意識的になされたことであると思われる。一尊四士の造立に関しては「日興所立の義」として、『富士一跡門徒存知事』の追加の条に次のように述べる。
「一、弁阿闍梨の弟子・少輔房日高、去る嘉元年中以来、日興が義を盗み取つて下総の国に於て盛んに弘通す。
一、伊予阿闍梨の下総国真間の堂は一躰仏なり。而るに去る年月、日興が義を盗み取つて四脇士を副う。彼の菩薩の像は宝冠形なり。
一、民部阿闍梨も同く四脇士を造り副う。彼の菩薩像は比丘形にして納衣を著す。又近年以来諸神に詣ずる事を留むるの由聞くなり。
一、甲斐国に肥前房日伝と云う者有り(寂日房向背の弟子なり)。日興が義を盗み取つて甲斐国に於て盛んに此の義を弘通す。是れ又四脇士を造り副う。彼の菩薩の像は身皆金色・剃髪の比丘形なり。又、神詣を留むるの由、之を聞く。 」
日高は冨木常忍の跡を継いだ中山2世であるが、冨木常忍が残した『常修院本尊聖教事』には既に「釈迦立像並四菩薩」とあるから、一尊四士の造立は日高ではなく冨木常忍による『観心本尊抄』に基づく造立であり、日興の義を盗んだわけではないと思われる。次の真間弘法寺の釈迦像は『真間釈迦佛供養逐状』において、言及されている日蓮が開眼供養した仏像であるが、それが伊予阿闍梨日頂の頃に四菩薩が添加されたものと思われるが、これも冨木常忍と日頂の関係を考えれば、日興の義を盗んだわけではないだろう。
次に民部阿闍梨日向が四菩薩を造立したという記事であるが、追加の条の引用した箇所の前の部分に「(日澄は)去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す。爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る。此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり。」とあるから日向はまず釈迦の一体仏を造立した後で四菩薩を造立したことが分かる。次に小室妙法寺の日伝も一尊四士を造立したことを述べている。
この『富士一跡門徒存知事』でよく分からないことは、「日興の義」が単に一尊四士の造立だけを指すのか(それならば『観心本尊抄』でも述べられていることだから「日興の義」にはならない)、それとも『原殿御返事』で主張していた一尊四士同時造立を指すのか、どちらなのかということである。日蓮門下であれば『観心本尊抄』を読んで一尊四士の重要性は直ちに理解したであろうが、経済的事情で同時に造立できないということは多かったに違いない。だが釈迦一体仏を造立してこれで十分と考えたとは思えない。だから日興とその他の弟子たちとの相違は、一尊四士の時間をおいての造立を認めるか、それとも同時造立を主張するかの相違であると考えられるのだが、『富士一跡門徒存知事』だけでは何とも判断しかねる。
さて日興は一尊四士の造立を「日興の義」として容認していたことは示されるが、それが積極的な容認でなかったことも上記の本尊に関する記述から分かるし、また日興門流で一尊四士の造立がなかったことからも分かる。日興の晩年の檀越の経済的余力がどうであったかはよく分からないが、消息類には「仏事にも事欠く」ような記述も見え、それほど裕福でなかった様子も伺われるが、日興は長命であったから、もし一尊四士の造立が重要であると考えていたなら、檀越にそれなりの貯蓄を指示していたろう。日興に『原殿御返事』で経済的余力のなさを指摘された波木井氏でも、最終的には日興の存命中に一尊四士の造立に成功したのだから、日興門流でもその意思さえあれば、一尊四士の造立は可能であったと推測するのが当然であろう。
なぜ一尊四士の造立が無かったかと言えば、考えられる理由は一尊四士よりも曼荼羅を本尊として重要視すべきだという『富士一跡門徒存知事』にも表明されていた考えであり、その淵源は日蓮の『本尊問答抄』に求める以外にはない。日蓮はその事跡において曼荼羅以外に釈迦の一体像も本尊として認め、また著作でも『観心本尊抄』では「妙法蓮華経の五字の本尊」=曼荼羅と「寿量品の本尊」=一尊四士とを同時に本尊として認めていたが、唯一『本尊問答抄』では法勝仏劣、能生所生の議論により「法華経の題目」=曼荼羅を仏像より勝れていると主張していた。それ以外の著作には本尊論としてはこのような考えは見られないのだから、日興がこの著作を重視して、これを『観心本尊抄』よりも重要だと考えたと推測してもよいだろう。
日興は五老僧との対立を意識していたが、そこにはどのような理由が存在したのだろうか。日興が最初に五老僧との違和感を覚えたのは、日昭、日朗が日蓮の遺言に背いて、それぞれ、『注法華経』、釈迦立像を持って、鎌倉へ帰ったということであったろう。(日蓮正宗では日昭、日朗は日蓮の百ケ日法要が終わり、引き続いてその年だけ輪番を守ったのかもしれないが、それが終わり下山するときに持って行ったとしているが、確実な資料に基づく記述ではない。)日興が記述した「御所持佛教事」には次のように述べている。
「御遺言云
佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々
経者 私集最要文名註法花経
同篭置墓所寺六人香花当番時
可被見之 自余聖教者非沙汰之限云々
仍任御遺言所記如件
弘安五年十月十六日 執筆日興 花押 」
これは、日昭、日朗、日興、日持の花押が押された文書である。だからこの『注法華経』と釈迦立像の二つは特に日蓮門下の共通の重宝として身延の墓所の寺に安置するように遺言されたのであるが、日蓮と日昭、日朗との間に個人的な譲渡関係の約束あるいは密約があったのかもしれないが(それが日位の『大聖人御葬送日記』の記録に反映されているのかもしれない)、そのようなことには全く触れず、身延の墓所への安置を遺言として六老僧が相互に認めたと見るしかない。少なくとも日昭、日朗の行為は日蓮の遺言に背く約束違反であると日興には感じられたであろう。しかもこの文書の引用文の後に書かれている墓番の取り決めも反故にされ、日興にしてみれば、墓番は遺言ではあるが、具体的なことは老僧の間の自発的取り決めなのだから、もし活動地域などの問題で実行困難であるなら、取り決めをする前に、そのような事情を説明し、墓番制度を抜本的に見直すなり、あるいは実行可能なように修正するなりすればよいだろうに、それもせず約束を反故にするということは人間的信頼の問題に関わってくるという気持ちになっても当然であろう。
(なお東佑介は{『大聖人御葬送日記』の文献的価値については「『日蓮聖人御遷化記録』諸本に関する一考察」(『法華仏教研究』第9号所収)の中で詳述し、偽撰たることを論証した。宮田氏は「日興の教学思想の諸問題」において「『御遺物配分事』…内容的にも疑問があり、全体的に問題が多い」(『興全』p.119)としている。私もこの判断に従う 」としているが、内容的に『御遺物配分事』を否定するのであれば、当然、『御遺物配分事』と同様の記述がある『大聖人御葬送日記』も否定されなければ論理的整合性はないのではないだろうか。もっとも、宮田氏は「日蓮と日昭、日朗との間に個人的な譲渡関係の約束あるいは密約があったのかもしれない」と記しているので、どちらかといえば日蓮宗的思考に近いものがある。とすれば、宮田氏にとっては日朗上人への釈迦立像の授与、日昭上人への『注法華経』の授与をめぐる記述は有効性があるのだろう。しかし、『大聖人御葬送日記』にはその他にも様々な疑点が存するのであるが、この点、宮田氏はどう考えておられるのであろうか。}とHPで述べて、日位の『大聖人御葬送日記』に関する私の記述の仕方に疑問を呈している。
私の見解は、犀角独歩がHPの記事「日蓮の実像(1)」で「それにしても、たしかに筆跡が本人のものでなければ、内容も怪しいといった議論はナンセンスですよね。日本には、古来から臨写、模写という気風があり、これらは正本を筆跡まで真似て写すことが行われてきたわけです。ですから、そうして写した後に、正本は失われることも起きえるわけです。よって「内容」吟味は、短絡に陥らず、慎重に期すべきであると思えます。」と述べているように、現存の池上本『御遺物配分事』が日興直筆であるということは否定するが、そこに書かれていることまでも偽作であると断定できるわけではないということである。日蓮が最重要の遺品と見なし、その処理について遺言したことを、最上位の直弟子二人が遺言を全く無視して勝手に処理したというストーリーは、日昭、日朗に対するマイナス・イメージを与えるだけではなく、そのような弟子を直弟子として認定した日蓮の人物評価能力までも疑わせることになる。私としては日昭、日朗の行為にはそれなりの理由があったと思いたいだけで、私の想像が史実と適合しているとまでは主張しない。)(2012.1.31付加)
次に日興が日昭、日朗に対して落胆したのは、『本尊分与帳』に「故聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子爰欲被破却住坊之刻、行天台宗而致御祈祷之由、各各依捧申状免破却難了具見彼状文」とあるように、日蓮死後4年目の弘安8年に幕府が鎌倉の寺院に国祷を要求し、それを拒否すると寺院が破却される恐れがあったので、日昭、日朗は幕府の要求に従って国祷をし、次のような申状を提出した。
「天台沙門日昭謹言上
(中略)先師日蓮忝為法華行者専顕仏果直道、酌天台余流(中略)日昭雖為不肖之身為兵火永息奉為副将安全構法華道場致長日勤行」
「天台沙門日朗謹言上
(中略)日朗忝相伝彼一乗妙典鎮奉祈国家」
それぞれ「天台沙門」と号し、国祷をしたことを明示している。前年の『美作房御返事』で「聖人より後も三年は過ぎ行き候に安国論の事御沙汰何様なる可く候らん(中略)さればとて老僧達の御事を愚かに思い進らせ候事は法華経も御知見候へ、地頭と申し某等と申し努々無き事に候」と述べて、重宝を身延から持ち出したこと、墓番を守らなかったことなどの不満はあっても、鎌倉の地で老僧たちによる立正安国論に基づく幕府への諌暁を期待していた日興にとって、日昭、日朗の申状は大いに落胆させるものであった。
日道の『三師御伝土代』には次のような日興のそのときの感想が述べられている。
「冨山仰に云く、大聖は法光寺禅門、西の御門の東郷入道屋形の跡に坊作って帰依せんとの給ふ、諸宗の首を切り諸堂を焼き払へ、念仏者等と相祈りせんとて山中え入り給ふぞかし、長日謹行何事ぞや、天台は迹化、上行は本化、天地雲泥の相違なり、何ぞ地涌の遺弟と称しながら誤つて天台沙門というや。」
諸宗禁断もなく、国祷をすることは、佐渡流罪赦免後に「法光寺禅門」(川添昭二 「北条時宗の研究−連署時代まで−」によれば北条時宗の法号)が日蓮に対して鎌倉に(「西の御門の東郷入道屋形の跡」はネット検索すると「鶴ケ岡八幡宮の東にあたる地で、鎌倉の中心地ともいえるところです」という解説が1箇所だけヒットした。また堀日亨の『富士日興上人詳伝(上)』(聖教文庫版)のp. 61に詳しい説明がある。)寺院を建立寄進するという懐柔策を提案したことに対して、日蓮が諸宗禁断を求めて拒否し、身延入山となった経緯を台無しにする裏切り行為と日興には思われた。日興は『原殿御返事』に「今年の大師講にも、敬白の所願に天長地久御願円満左右大臣文部百官各願成就と(日向が)の給い候いしを、此の祈は当時は致すべからずと再三申し候いしに、争でか国恩を知り給わず候べきとて制止を破り給い候いし間、日興は今年問答講仕らず候いき。」と述べて、日向が天台大師講の折、国祷をしたことを厳しく非難している。
日興にしてみれば、日蓮の宗教運動のアイデンティティの一つとして法華経至上主義に基づく諸宗禁断という要求があるのであり、それなくして国祷をすることは『立正安国論』の神天上の法義に反することと思われたのである。以後日興は鎌倉の老僧たちが自ら日蓮の法義から転落したものと判断し、独自に日蓮の法義を再解釈し始めたのである。その場合に、日興が自らの正当性を主張する根拠となったのは、日蓮の諸著作であった。神社参詣問題に関する日興の頑なな態度は、日蓮の事跡を考慮にして生じたものではなく、『立正安国論』の神天上の法門を絶対視することから生じた。『原殿御返事』の一尊四士同時造立説は『観心本尊抄』の厳格な解釈から生じた。『富士一跡門徒存知事』に見られる曼荼羅正意説は『本尊問答抄』を本尊論に関する他の著作よりも重視するということから生じた。このように見てくると日興は日蓮の著作を絶対視する原理主義者のように見えないこともない。
しかしながら日興を原理主義者と見なすにはいろいろ問題も多い。それは修行論に関して、日蓮が教えたことは、方便品、寿量品の読誦と唱題であったろうが、その他の修行については著作の中で明確な指示はしていない。特に書写行に関しては法華経の中でも五種行の一つとして挙げられ、日本の古代、中世において伝統的に行われてきた修行法であり、日蓮自身も『月水御書』で勧め、身延で行っていた修行だから、老僧たちがその修行を積極的に認めたことは、伝統との摩擦を避ける意味でも当然の選択であったと思う。しかし三位日順の『五人所破抄』では次のように述べられている。
「五人一同に云く、如法・一日の両経は共に以て法華の真文なり、書写・読誦に於ても相違有るべからず云云。 日興が云く、如法・一日の両経は法華の真文為り雖も正像転時の往古・平等摂受の修行なり、今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か、此れ則ち勧持・不軽の明文・上行弘通の現証なり、何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや、但し四悉の廃立・二門の取捨宜く時機を守るべし敢て偏執すること勿れ云云」
ここでは、日蓮の著作を引用することなしに(しようとしてもできないだろう)、末法相応の修行でないという理由で書写行を否定する。(私はここの文章に「但五字の題目を唱え」とあり、二品読誦が挙げられていないから、方便品寿量品の読誦も末法の修行には必要ないのではないかとも思っている。)
つまり日興は日蓮を上行再誕と見なしたから、その上行にふさわしい修行という観点から、日蓮が容認した修行を再解釈し、たとえ一般的に法華経の修行として容認されていた書写行であっても、たとえ著作の中で明確に禁止されているわけではなくても、上行にふさわしくない修行として拒否したのである。
私はある理念の下に教義を再解釈することはそれなりに必要なことであると思っている。日蓮不在の時代に、日蓮の教えの独自性とは何かを自問自答すべき状況に置かれた日蓮信奉者は何らかの仕方で、回答を見出すしかない。日興はそれを上行再誕ということの中に見出し、その観点から日蓮の教えを再解釈、再構成していったのである。そしてこのような態度は日興一人の態度ではなく、それなりに日蓮の信奉者たちにも共有されていたから、六老僧につながる門流という宗派間の対立としてではなく、宗派を超えた研究態度(あるいはパラダイム)として本迹論争が、それぞれの門流内部で生じたのである(私がナンシー・マーフィの紹介をしたときにはこのことも念頭に置いていた)。
そして日興の同時代人で日興から影響を受けつつも、この問題を取り上げたのが天目であった。日蓮が上行菩薩であり、本門の修行を強調するなら、なぜ迹門である方便品を読誦しなければならないのかという問題を提起したのである。日興は日蓮の著作から方便品読誦の根拠を見出すことができずに、「所破」という回答で切り抜けようとしたが、それほど説得力をもたず、『五人所破抄』で三位日順は「所破」「借文」という回答を用意した。(これが日興の見解ではなく日順の見解であることは『日順雑集』に「日順云く方便品を読む事は第一は所破なり、第二は下文顕已通得引用の筋と云云、但し日興上人は但所破と云うべし迹を借りて本の助に置くとは云うべからずと仰せ有るなり」と述べている。)それでも説得力がなかったことは日興死後まもなく日仙日代の間に方便品読誦に関する論争が生じ、日尊もそれなりに回答を用意したということにも表れている。
また方便品不読を批判している日蓮の著作も偽作されるようになったが、これらはすべて日蓮の本意が本門弘通であるなら、迹門の方便品を読誦することにどんな意義があるのかという当然の疑問から生じているわけで、日蓮自身はそのような問題意識を持っていなかったから、日蓮には回答を求めることができず、弟子たちがあれこれ理屈を探したり、偽書を作成して日蓮の権威でその議論を封殺しようとしたと見なすことができる。
日蓮の著作の偽作はこれにとどまらない。日蓮自身に本覚思想があったことは明確であり、『観心本尊抄』の「四十五字法体段」も本覚思想の一つの表現と見なすことができるが、「所化以同体」の議論はやがて『諸法実相抄』の凡夫本仏論へと展開していくことが次のように示されている。
「法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時事相に二仏と顕れて宝塔の中にしてうなづき合い給ふ(中略)されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、(中略)釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依つて倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、(中略)実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」
私個人は、日蓮が凡夫本仏論までは持っていなかったろうと推測しているが、もし所化である行者の己心に仏と同じ悟りの境地が内在しているなら(これは清水説であるが)、凡夫である行者は本来仏であるという解釈が生じることも、議論の展開としてありうるだろう。「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」というのは、理としての「妙法蓮華経」が事としての「釈迦多宝のニ仏」よりも根本であるということを主張していると解釈でき、そこから理即の凡夫が、事としての「釈迦多宝のニ仏」より勝れているという論理展開をしていると見なすことができる。「万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」という一節に、安然の『斟成草木成仏私記』(869-885 成立?)の「草木國土悉皆成佛」という本覚思想との類似を見るのは私一人であろうか。
本門戒壇についても日蓮の確実な著作には明確なことを何も書いていないから、『富士一跡門徒存知事』では次のように主張している。
「一、本門寺を建つべき在所の事。
五人一同に云く、彼の天台・伝教は存生に之を用いらるるの間・直ちに寺塔を立てたもう。所謂大唐の天台山・本朝の比叡山是れなり。而るに彼の本門寺に於ては先師・何れの国・何れの所とも之を定め置かれず、と。
爰に日興云く、凡そ勝地を選んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河国・富士山は、是れ日本第一の名山なり。 最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由、奏聞し畢んぬ。広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」
日蓮正宗では「奏聞し畢んぬ」という表現を、日興が日蓮に「奏聞」したと読解し、富士山に本門寺を建立することは日蓮の意志でもあると主張しているが、普通「奏聞」という言葉は天皇などに奏上することを言い、日興の他の著作で、日蓮に対して「奏聞」するという用語を使用しているならともかく、そうでないならば、日興が申状を通じて天皇に奏聞したと素直に読解すべきであろう。
ここで「本門寺」と書かれているのは単にそういう名称の寺院を建立するという意味ではなく、「本門戒壇」の寺院である本門寺を建立するという意味である。だから上記引用の後で、「右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶべきなり。就中仏法は王法と本源躰一なり。居処随つて相離るべからざるか。仍つて南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国・富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由・且つは往古の佳例なり。且つは日蓮大聖人の本願の所なり。」と平安京から富士山のふもとまで遷都することをも主張している。
この『富士一跡門徒存知事』や『五人所破抄』では富士戒壇説は主張されているが、『三大秘法抄』の引用はない。日興門流に知られていなかっただけなのか、それともこの頃には存在していなかったのか、私には分からないが、戒壇について最も明確に述べているのは、『三大秘法抄』であり、日蓮の確実な著作では明確になっていなかった戒壇について「勅宣」「御教書」という法的手続きを明記し、延暦寺の大乗戒壇と同様な本門戒壇を建立すべきことを明確にしている。私は大田乗明に授与された著作なのに、大田乗明の子である中山2世日高の跡を継いだ中山3世日祐の『本尊聖教録』にも記載されていないなど疑問が多いので、偽書だと思っているが、それでも日蓮の延暦寺の大乗戒壇を重視する思想を受け継ぎ、その戒壇建立の手続きを参照した上で、さらにその当時の権力構造を踏まえた上で、日蓮の意志を代弁するという自覚を持った者が『三大秘法抄』を著したのだと推測している。
偽書の多くは日蓮が曖昧にしたままで、解明していない事柄に関して、後世の日蓮信奉者が、自分なりの研鑽を積み、日蓮の思想を再構成する中で、日蓮が語らない部分を日蓮に成り代わって表現するということによって生じたと私は思っているし、このことについては佐藤弘夫の『偽書の精神史』を参照していただきたい。日興の『原殿御返事』にも「聖人や入り替らせ玉ひて候ひけん」という表現があったが、この自覚こそが、日蓮が語らなかったことを、日蓮に代わって主張するという態度につながっていくのである。
学者であれば、確実な文献資料には本門戒壇については何も明確なことは述べていないですよということですますことができるが、信仰者の立場であれば、本門戒壇を実現することが日蓮の三大秘法を実現することになると思えばこそ、具体的にどうすればいいのかを求めるだろうし、そのうえで『三大秘法抄』に述べられていることが、自分にとって納得のいくことであれば、『三大秘法抄』の指示に従った行動をとるのも当然であると思う。創価学会の二代会長戸田城聖は『三大秘法抄』を受け入れつつ、「勅宣」「御教書」という法的手続きは不可能だから、国民主権に照らして「国会の過半数の議決」という法的手続きによって本門戒壇を建立しようとした。これもそれぞれの時代に適応した本門戒壇の実現に向けての運動であり、後に三代会長池田大作が「国会の過半数の議決」ということは日本国憲法の政教分離原則に違反するという指摘を受けて、憲法を変えるという選択肢もありえたけれども、政教分離原則が思想、信条の自由を保障するために重要な原則であるという考えが多くの人に支持されているという事実を受け入れて、「国会の過半数の議決」という戸田の運動方針を撤回し、本門戒壇は民衆立であるという考えを表明したのも、『三大秘法抄』とは無縁であっても、その時代の本門戒壇実現に向けての努力の表れであろう。この池田大作の考えに反対して、あくまでも「国会の過半数の議決」を求めようとした現在の顕正会は『三大秘法抄』を重視し、戸田城聖の解釈の下で本門戒壇の実現に向けて努力している。この二つの方針のいずれが妥当であるかなどという問題に関しては、多くの人に認められる判断基準はない。一方は社会的文化的状況に応じて宗教運動を進めていくことが正しいと考え、もう一方はあくまでも聖典に基づいた宗教運動こそが正しいと考えているからだ。これもリベラリズムと原理主義の争いの一つの形態である。
その意味では日蓮の語らなかったことについて、日蓮に成り代わって回答しようとする態度から、教義の深化あるいは進化が生じるが、場合によってはそのことが教義論争の泥沼化をもたらすこともありうる。