友情と愛情の境で 4


 街は春休み、しかも週末ということもあってか有栖が思っていた以上に人で溢れていた。
 京都は世界でも有数の観光地である。しかも現在は桜季節。浮かれて嵐山だ円山公園だなどと花見のメッカに行かなくて本当に良かった。
 学生時代からの顔なじみである大家に礼を言って火村の下宿を出ると、有栖はまだうっすらと二日酔いの頭の痛みが残ったまま英都大学に向けて
歩き出し、早くも後悔を始めていた。でもバスに乗ったらなんとなくまずいかなと思ったのだ。
 頭痛はしていてもムカつきはなかったのだが、それでも揺られていればどうなるかは判らない。それならばタラタラと歩いていった方がいい。
 だが、人が多いのだ。勿論ギュウギュウの寿司詰め状態なわけではないが、どうも道を尋ねやすい顔をしているのか、歩いているとやれ哲学の道は
どうだの何系等のバスに乗れば南禅寺に着くのかだの、ここから嵐山の方に向かうにはどうしたらいいか等など、俺は観光協会の人間やない!と思い
たくなるほど声をかけられた。
 それでも歩けばやがて目的には着く。
 帰るというより先に少し休ませてくれと言ってしまいそうな自分に、胸の中で乾いた笑いを零しつつ、有栖は研究室棟に足を踏み入れて廊下を歩き
出した。そうして近づいてきた火村の研究室。
 その瞬間、目的地であるそこのドアがゆっくりと開いた。
「それじゃあ、火村君。その予定で」
「はい。ありがとうございました」
「いや、また近くなったら。くれぐれも言っておくが本決まりではないからね」
「はい」
 聞こえてくる二つの声。
 それは火村自身のものと、火村が色々と世話になっている島田教授のものだった。
 軽く手を上げて島田は有栖がいる方とは反対側に向かって歩き出した。それを見送るようしていた火村はやがて有栖に気づくこともなくそのドアを閉じる。
「…なんや?」
 何となく不思議な感じがした。
 漏れ聞こえてきた本決まりではないというのは何の事なのか。何が決まりそうになっているのだろう。
「もしかして…教授への昇進…ってそれはありえへんやろ」
 今だって火村はこの大学で最年少の准教授だ。その彼が他の准教授を飛び越えて最年少の教授になるというのはどう考えても難しい。
「学会かなんかに教授の代わりに参加するんかな?」
 とすればこの春、火村はますます忙しくなる。
「……先生は大変やな」
 ポツリと呟いて有栖は踵を返した。これ以上火村の時間を邪魔してはいけない。
 外に出て有栖はそのまま地下鉄への階段へと向かった。帰ろう。とにかく帰ろう。今はとても会うことはできない。でもこのまま何も言わずに帰ってしまう
のも気が引ける。
 取り出した携帯電話。登録をしてあるそれを呼び出して通話ボタンを押す。
『はい』
「………っ…」
 その瞬間有栖はなぜかわけもなく泣き出したいような気持ちになってしまった。どうしてかは判らないが、聞こえてきた声にひどく切なくなったのだ。
『アリス?アリスだろう?おい、どうした、具合でも悪いのか?』
 優しい声。これは反則だ。有栖はなぜかそんな風に思った。
「…昨日はすまん」
 ようやく発した声に電話の向こうで小さく笑うような声がした。有栖の戸惑いを火村はどうやら有栖が自分自身を気まずく思っているのだと解釈したらしい。
『今更だろう。それで酒は抜けたのか?』
「…まだちょっと…でも平気や。とりあえず帰る。そのほんまに忙しいのにごめんな。また連絡するから」
『アリス?』
 訝しげな声が聞こえて慌てて言葉を付け加える。
「えっと…また誕生日の頃にでも連絡するわ」
『…ああ。判った。気をつけて帰れよ』
「うん。君も仕事頑張ってな」
 切った電話。そのまま何かに押されるように有栖は階段を下りた。
「…何やねん、一体」
 先ほど見た光景。
 自分の中に湧き出てきた感情。
 それを胸の中に抱えたまま有栖は切符売り場へと近づいた。


お待たせした割に短くてすみません。