Yuzu
 俺の悪い癖だ。捲簾をすぐ逃げ場にするところ。
 俺はこれでも男だから、嫉妬や愚痴を友人に垂れ流すのはどうにも美しくないというそれなりの美学がある。プライドも、まあ、ある。でもここ数日の俺のやってることといえば、八戒から吸い上げた汚い感情を、兄貴のように優しい捲簾のとこに持っていって捨てるというゴミ捨て作業だ。俺がいつまでも自分の中でゴミ焼却できないガキなのは、俺も悪いが捲簾も悪い。昔から俺が何を言おうが何をやろうがはいはい聞いてベタベタに甘やかすから、うっかりこいつがあかの他人だということを忘れる。
 捲簾は兄貴じゃない。もうそろそろ兄貴離れして、きちんとひとりで戦わないと。
 何とって、人生と。
 八戒みたいに。ひとりで真っ直ぐ立ってる八戒みたいに。
 あそこまで人に頼らないのもどうかと思うが、あの凛とした強い目を見習って。
「じゃあなブラコン」
「はぁ?」
「帰って寝る。八戒と、今日は呑まねえって約束したし、明日酒残ってたらみっともなくてあいつに会えねーもん。どーもお邪魔しました」
 俺は上着を、といっても捲簾のブルゾンだが、掴んで立ち上がった。
「おいこら待て。俺がモテモテだってのと、お邪魔しましたはどう繋がる」
「俺もあんたみたいにモテモテになれるように頑張ります。もうしばらく来ない。お休みなさい」
 もう玄関で靴をひっかけてドアノブを握っていた俺は、捲簾の「いいから大人しくここへ座ってお兄ちゃんに何でも話してごらん」(訳・俺)に問答無用に引き戻された。
「このブラコン兄貴」
「日本語喋れ」
 そこで捲簾のしていることは何かと言うと、俺に熱いお茶を淹れてくれることだ。兄貴通り越して父親か。いや母親か。天蓬にもこの調子なんだろうな。そりゃ天蓬も辛いよな。天蓬の熱い恋心にも気付かずに日々を送るこの男前は、俺が口を割らないわけはないと確信しくさっているようだ。
「俺はもうあんたに甘えずひとりで立ち上がろうと心に決めました。だからもう頭撫でてくれなくて結構です」
「あっそう。偉いな」
 捲簾は平然と、俺の大好きな緑茶をなみなみと注いだ湯呑みを差し出した。
「で?どうした」
 わーん。
「どうせ俺はガキだよ!」
「だから?」
「失恋して今にも泣きそうだ!」
 けど泣かない!まで言うとアホなので言わないが、捲簾の前にでると幼稚園のガキみたいに感情垂れ流しになる。
 捲簾は、叫んだはいいが茶が熱すぎて否応なしに礼儀正しく啜るしかなくなった俺を、哀れみだか同情だか憐憫だかが(同じだ)入り交じってそこに何かがプラスされたような妙な目で俺を眺めた。どっちにしろ意表をつかれたという訳でもないようだ。そりゃそうだろう。昨日から俺は八戒のことしか喋ってない。八戒はほんとにいい男なんだとか、あれで結構可愛いんだとか、もの凄く仕事ができるとか、手加減を知らないだけだとか、天蓬だってきちんと八戒と向かい合えば絶対あいつに惚れるはずだとか、それくらい、それほど、あいつの笑顔がいいんだとか。
 それを一番よく知ってるのは俺だ。とか。
「…失恋。悟浄が。……はは」
 まったくちっとも全然笑うトコじゃねえ。
「まあ、しょうがねえわな。こればっかは」
 何じゃその面白くもないコメントは。
「で、誰に」
「にぶっ!」
 俺は思わず茶を噴いた。天蓬、無理だぜこの男!
「あんた鈍い鈍いと思ってたけど何その鈍さ!!馬鹿?牛?亀?ミミズ?会社であんだけクルクル回るあの脳味噌は溶けちゃったんですか!?八戒以外に俺の心を鷲掴む霊長類がこの世のどこにいらっしゃいますか!?かーっモテてモテて自分からアタックしたこともねえ失恋したこともねえ人の痛みも分からねえ二枚目はこれだからやだね!ああもう絶望的!公害!あんたに惚れた奴が可哀相!いっぺん崖から落ちてこいばーか!」

 さて。

 …ここで俺が凄い目で睨まれているのは何でなんでしょう。
 どんな罵詈雑言でも涼しい顔で聞き流すこの兄貴の変なスイッチを押してしまったんでしょうか俺は。怖ぇ。何。あやまるから誰か助けて。天蓬とか八戒とか。
「悪い、ごめん、なんか知んないけど言い過ぎた」
「…もう一回いってみろてめぇ」
「死んでもやだ」
 昔から捲簾と喧嘩して勝てたことなんか一回もねえのは、俺が捲簾相手に本気になれねえからだ。弟というものはそういうものだ。一生兄貴には勝てないもんだ。
「さぁ明日もお仕事がんばりましょう捲簾主任!おやすみなさい、ご馳走様!」
 玄関に向けてダッシュしたところを首根っこひっつかまれて思いっきり床に顔面ぶつけた。
「いったぁ!あやまってんじゃねえかよ!」
「どこをどうあやまったつもりだ。言い逃げするたぁいい度胸だな覚悟しろ死を」
「えーとえーと馬鹿とか牛とか亀とかごめんなさい!」
「全部そのままてめぇに叩き返してやるわこの鈍亀!」
「…ど…どん…?」
 俺の頭が動く前に、天使の鳴らす救いの鐘の音が鳴った。
「捲簾、捲簾さん、携帯鳴ってる、携帯!誰かなっ天蓬かなっ」
 俺の背中をほとんど踏みつけていた捲簾は、舌打ちひとつしてようやく俺の上からどいた。その隙に荷物や上着や倒された拍子に飛んでったブレスを掻き集め、俺はようやく部屋を脱出して静まりかえった深夜の開放廊下を自分の家まで逃げてきた。
 やっぱり天蓬だったらしい。扉を閉める直前に「ああ、おまえか」とリラックスしきった声がしたから。なんであいつ気付かないのよ。やっぱ馬鹿だ。牛。亀。ミミ…
 …鈍亀?

 俺…何か見落としてんのかな。