haru
何もかもが、思うようにはいかない。

 鍋のダシをこれでもか、というほど飲んだのに、喉はカラカラに渇いていた。八戒に触れられた手を一瞥したら、その手は携帯電話へと伸びていった。自分の体なのに、僕の意識を無視してして。
 もはや他人のものとなった手が、着信履歴から、あの男の名前を探して、選択したままプッシュした。

「ああ、おまえか」
 リラックスした、捲簾の声。自然に、目を閉じた。
「…天蓬?」
 目を閉じていたら、声を出すのを忘れてしまっていた。
「駿河不動産の件なんですが」
 違う。何の話始めようとしてるんだ僕は。
 頭の中に言葉を用意してから電話しないから、こんなことになるんだ。

「ん、何?何か言ってきたんか」
 動け、動け、僕の頭、僕の口。
「…天蓬?」
 手にびっしょりと汗をかいていた。僕の脳ミソと声が死んでから、何分経っただろう。カチカチカチカチと無情に時を刻んで行く壁時計の音が、僕の鼓動と重なる。

 3分、捲簾は僕の無言電話に付き合ってくれたあと、
「お前、体調戻った?」
 と、言った。
「明日までに片付けねーとダメな仕事とか、デートとか、見たいテレビとかビデオとかねえんだったら、うち来ねえ?何か無性に呑みてえんだけど」
「行きます」

 即答、していた。

 捲簾の部屋は、オールフローリングのワンルームで、男の一人暮らしとは思えないほど整理整頓されていた。部屋は、性格をあらわす。どう考えても自分で買ったものではない小物や雑貨も、埃ひとつかぶらずサイドボードに並べられている。
 どうして、こんな男に僕は。
 八戒が言ったように、僕が告白しても多分、捲簾の態度は変わらないだろう。今までと同じように、誰にでも向けられる優しさと笑顔と気配りをもってして、僕と接してくるだろう。
 わかっているからこそ、余計に言えない。
 どうせ結果は同じなのだ。同じなら、いっそメタメタに切られて、二度と会いません!と、なりたい。

「四日酔い、ですよね」
「カッコ悪ィな俺」
「は?」
「…いや、こっちのこと。ん」
 冷蔵庫から冷えたビールを出して、軽く僕に投げた。
「貴方って」
「ん?」
「損ですよね」
「…今日、まったく逆のこと言われた」
「誰に」
 馬鹿だ僕。聞かなくてもわかっていたのに。
「悟浄だよ、あのクソガキ。俺はモテモテで自分からアタックしたことも失恋したこともない人の痛みがわからねえ二枚目だって、言われた。得な性格なんだと」
 この男がこんな風に、自分を傍観したように話をするのは珍しい。
 アルコールとは罪だ。人をこんなに弱くさせる。
「何で俺、損だと思うのよ」
「蹴っても殴ってもウンともスンとも言わなさそーな、鉄壁があるから」
「…何それ」
「だから、貴方がこーやって、アル中でもないのに四日連続うまくもない酒を飲んでいることなんて、誰も想像できないんですよ」
「うまくねえって何でわかんの」
「美味しいんですか」
「今、ちょっとうまくなってきた」
 ニカリ、と白い歯を見せて捲簾は笑った。
 こういうのも、別にいいかな、と思う。捲簾をこんな風に弱くさせてるのは僕じゃないけれど、第三者としてこの男を見ているのも、悪くない。…と、思おうここは。じゃなきゃ、片思いなんてやってられない。
「お前、視野広いからさ、ちょっと聞いていい?」
 一体いつ僕の視野が広くなったんだ。がちがちに狭いというのに。
「俺って、亀?」
「はあ?」
 ああ、また悟浄に言われたのか。悟浄に。
「…ええ、亀で牛ですね。貴方って、悟浄にも言われたみたいですけど、自分からアタックしたことも失恋したこともないでしょう。惚れるよりも、惚れられて惚れられて25年以上生きてきたクチでしょう」
「あるよ、失恋くれえ」
「へえ、いつ」
「さっき」

 僕は大馬鹿だ。

「…それはそれは、ご愁傷様」
 他に言うべき言葉は山ほどあったと思う。でも、一瞬にして頭に血がのぼってしまったのだ。捲簾の家に来て、何となく穏やかな時間が過ごせる雰囲気で、少しは落ち着いたと思っていたのに。
 血がのぼって、すぐに冷めた。夜中に僕を呼び出して呑みたいだなんて、よほどのことがなければない。ない、ということは、よほどのことがあったと考えるべきだった。
 夜中に無言電話をかけてしまう僕と同じように、この男も非常によろしくない精神状態だということを、考えるべきだった。
「あいつが、まさか八戒に惚れてるなんてな。親友なんだと思ってた、ハハ」
 ハハ、じゃない。笑うところなんて、ちっともない。
「蛇の尻尾、ってヤツ?俺はあいつが好きで、あいつは八戒が好きで、八戒はお前」

 尻尾じゃない。

 四角に、つながってるんだ。

「貴方は、やっぱり亀ですよ」

 

 今なら、言えるかもしれない。