Yuzu
やっぱ俺、天蓬嫌いだ。大嫌いだ。
八戒は見舞いに行ったんだぞ?下心ありありにしろ、心配してお見舞いに、自宅から正反対の電車で1時間近くかかる自宅までお見舞いに伺ったんですよ?それを終電の心配もしてやらずに追い出して、その天蓬が今、ベランダに煙草吸いに出た俺の視界の遥か下を、とことこ歩いてマンションの正面玄関から入ってくるって、どういうことよ。
具合が悪いんじゃなかったのかよ。
夜中に捲簾とこに来れるってどういうことよ。
八戒がここから家に帰るのに、タクシー代いくらかかると思ってんのよ。この時間あんな国道から引っ込んだとこでタクシー捕まえるのがどれだけ大変だと思ってんのよ。
そんなに八戒のことがどうでもいいのか。天蓬のことが好きで好きで大好きなあいつのことが、そんなにどうでもいいのか。
握ったベランダの手摺りが軋んだ。
言っとくが、俺は普段非常に温厚だ。こんなに怒ったのはひさしぶりだ。髪の色が一段濃くなるかと思うような怒りは、当然捲簾にも向かった。あいつは何なんだ。何やらいきなりぶちぎれるもんだからもしや俺のことを好きとか好きとか?なーんて、しかもちょっと嬉しかったりした俺が馬鹿だった。結局主任どうし両想いってオチなわけ。そんで今晩くっついちゃったりするわけか。
…勝手にしろ。
勝手にしろよ。ああ、もう、やっちゃえよ。お似合いだぜおまえら。
俺はまだひっかけていたブルゾンを部屋の壁に思いっきり叩きつけ、携帯を繋いだ。木曜日に駒沢通りでタクシーなんか捕まるもんか。
「悟浄、捲簾の話は明日会社で聞きますよ。今日はゆっくり寝て下さい。僕のほうは大丈夫ですから。呑んじゃ駄目ですよ」
歩きながら喋っているらしい八戒の声はいつもと同じに酷く優しい。
「うち泊まれ。遠いしあぶねぇし金かかんだろ。迎えに行くから」
「何言ってんです、女じゃないんですから。大丈夫。こういうこともあろうかとちゃんと精算費も全額おろして」
「泊まれっつってんだ!」
八戒は弾かれたように黙った。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。ひとつも大丈夫じゃないくせに、いつもそうやって笑う。
「…会いたいなら会いたいって言ってくれれば、僕も行きやすいのに」
「…会いたい」
大丈夫、嫌いになりませんよ。
大丈夫、主任のことは諦めてます。
いつも、いつも、笑う。
八戒は途中にあるコンビニの袋を下げてきた。何度か遊びに来たことはあるが、泊まりは初めてだ。
「…ふつー酒のツマミとかでてくるよな」
「呑むなって言ったでしょう。社会人が許されるのは三日酔いまで。ああ、貴方のとこ、布団ちゃんと二組あるんでしたっけ。お風呂借りていいですかお風呂。歯ブラシも買って来ちゃいました」
捲簾の部屋でどうせ呑んでるだろうあいつらに聞かせてやりたい。許されないってよ社会人。
八戒が風呂に入ってる間に、コンビニの袋から出てきた卵と食パン、レギュラーコーヒーに牛乳、グレープフルーツなどなどのザ・朝食メニューを、俺は丁寧に冷蔵庫に入れた。捲簾との顛末を全部ぶちまけてしまいたかったが、ひとつひとつ八戒の差し入れを眺めているうちに、どうでもよくなった。八戒を悩ませたくない。こんなくだらないことで。捲簾なんかのことで。
元々、兄貴からひとりだちしようと思ってた。いーんじゃん、それで。
明日からあんたは「捲簾主任」だ。
「で捲簾主任がどうしました」
俺のパジャマを着た風呂上がりの八戒は、俺が敷いた布団の上に正座して髪をがしがし拭いている。うちにはドライヤーがないのだ。
「もういいわ、そんな話。寝よ」
「髪が乾くまで寝られません。貴方にはいつも愚痴聞いてもらってるし、たまには甘えて下さいよ。告白でもされましたか」
窓をあけて夜風を入れると、俺は八戒のすぐそばにゴロンと寝っ転がった。
「…はっきりとは言われてねえけど、そうではないかと思われる」
「そうでしょう。そんな感じしました。社内でも噂でしたよ。知らないのは貴方だけ」
鈍亀。
…いや。捲簾が俺を好きなのは知ってたよ。俺には他の奴より甘かったし優しかったし厳しかったし冷たかった。でもそれは家族の愛情かと思ってた。それが恋愛感情だったとしても全然嫌な気はしない。ただ俺にとって捲簾は兄貴で、兄貴なだけだ。
「…ちょっと嬉しかったけど」
「普通、そうですよ。嫌がられるのは僕ぐらいです」
いつまで笑ってんだろ、こいつ。
「…天蓬、今、捲簾のうちにいるぜ」
八戒の手が一瞬止まって、またゆっくり動き出した。
「…じゃあ向こうも今、告白中かもしれませんね。僕、さっき天蓬主任に告ればいいのにって言ったから。変なこというみたいですけど、主任ふたりってお似合いだと思うんですよ。貴方と捲簾も兄弟みたいでお似合いだと思ったし、僕と貴方も、性格違いすぎて案外バランスいいんじゃないかと思った。そう考えてると、もしかしたら僕が天蓬主任を好きになった事が間違ってるのかって。だから天蓬主任はあんなに逃げまくってるのかなって」
湿ったタオルを俺に手渡すと、八戒は仰向けになった俺の顔を覗き込んだ。
「でも貴方が信じてくれるから、僕も僕のこと信じます。だから大丈夫。そんなことで貴方が怒ることないんです」
何故か、天井が揺れた。
「…貴方が泣くこともないんです」
俺は、今の今まで「天蓬なんかやめろ」と怒鳴る気満々だった。俺にしとけばいいのにどころか俺にすべきだ、おまえは間違ってると怒鳴るところだった。
間違ってない。
捲簾が俺を好きなのも、天蓬が捲簾を好きなのも、俺が八戒を好きなのも、間違ってるわけがない。好きで好きでもうどうしようもないのに、なんでうまくいかないんだろう。俺はいいけど何で八戒がうまくいかないんだろう。捲簾もいいけど何で八戒が。天蓬もいいけど何で八戒が。八戒だけでも何とかなったっていいじゃんか。
八戒に髪を撫でてもらってるうちに、コトンと眠ってしまった。
俺は、ほんとにガキだ。どうしようもない馬鹿だ。人前で泣くなんて。しかも理由が分からないなんて。しかもあいつからさせるなんて。
キスなんかさせるなんて。
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