haru
 どうせこんなことになるなら、とって食われてたほうが、楽だったかもしれない。

 目の前で変なことを微笑みながら言ったこの男の、目。初めて会ったときに僕に向けられた目。あの目が忘れられない。あの目さえなければ、僕はこんな風に、この男を無慈悲に拒絶し、この男のすべてを否定しようとなんてしなかった。
 もう遅い。こんな風にしか、できない。
 自分が今、何故笑っているのかもわからない。
「あの、これ使ってください」
 僕が散らかした書類を丁寧に整理しながら、八戒は目薬を差し出した。
「ロートの新製品。効くんですよ、これ。ああ、新品ですから大丈夫です」
「何で」
「いや、目、充血してるみたいでしたから」
「そうじゃなくて」
 僕はこんなにも、貴方に冷たいのに。
「…主任に、そんな顔させるつもりはなかったんですけど」
 笑ったつもりだったのに。もう崩れてしまったか。
 自分でも、自分が今どんな顔してるのか知りたい。
「…使わせてもらいますから、そこ置いておいてください」
 こう言うのが、精一杯だった。八戒は僕をじっと見つめて、僕の視線が返って来ないことを確かめてから、また柔らかに微笑んで、僕のデスクに目薬を置いて、自分のデスクへ戻った。

 頭が、どうにかなりそうだ。

「うーす」
「あ、おっはよーございまーす捲簾主任!わ、酒くさ!」
 営業の小林君の甲高い声が、気に触る。頭が、ガンガンする。
「っせえな、まいんち浴びるほど呑んでりゃそりゃ酒臭くもなるだろーが」
「いや、僕、主任が毎日お酒呑んでることなんて知らないし」
「そりゃそーだ」
「何かあったんすか〜?僕で良かったら、何杯でも何件でも付き合いますよっ」
 相変わらずモテモテのようだ。激しい頭痛と同時に、胃痛までしてきた。

 カツカツ、バサッ、ドン、カツカツカツ。

 捲簾の音が、耳に触る。背中で感じてるだけなのに、体中が耳になったみたいに聞こえてくる。
 …ああ、こっち来る。
「うす」
「…どうも」
 あ、今声が上ずった。
「俺一晩中考えたんだけどさ」
「あ、佐伯さん。今日1時に『アートデザイン』1月号の件で、立花出版の方がお見えになるので応接室に先にお通ししておいて下さい」
 自分が嫌でたまらない。
 あからさまなシカトに、捲簾の目が少し泳いだのがわかった。それから、髪をガシガシ掻いて『ちくしょ…』と呟いたのもわかった。八戒が僕たちを見ていたのも、わかっていた。
 だけど、もう、どうしようもなかった。今、捲簾の顔はちゃんと見れない。捲簾の声はちゃんと聞けない。
「かしこまりました!12月号に、主任が設計した水族館の写真、掲載されるんですよね〜楽しみ!」
 事務員の佐伯さんがにこにこ笑っている。その後ろで、捲簾がすごい目で僕を睨んでいた。そんな目される覚えなどどこにもない。僕は悪くない。捲簾も、
 捲簾も、悪くない。
「天蓬
―――――!!!!」

 捲簾が、叫んだ。

 僕の全身が耳になっているせいではなく、本当に叫んだのだ。狭い事務所中の人間がいっせいに目を丸くして振り向くくらい大きな声で、僕の名を呼んだ。
 …何て卑怯な男だ。
 これなら、僕は絶対に無視できない。
「…なんて声出すんです」
「うるせえ、てめえがシカトぶっこくからだ。ちょーこっち来い!」
 ガシッ、と、強く腕を引っ掴まれた。強い腕で。
「だあ、うっせえ、何でもねえよ!仕事のことで、対立してんの!バトルだよ、バトル!男と男の!いつものこったろ!」
 と、目を丸くしたままこっちを見ているスタッフにも叫んで、僕を給湯室に引っ張り込んだ。捲簾と僕が仕事の意見の食い違いで言い争うことは日常茶飯事なので、スタッフたちも納得したように仕事を再開させたようだった。
 やっぱりこの男、計算だ。天然でいい男やってるわけじゃない。絶対そうだ。そうだと信じさせてくれ。

 でないと、もう。

「ふー」
 捲簾は、ほっと一息ついた。無性にムカつく。僕は一息どころか一呼吸すらままならないというのに。
「俺一晩中考えたんだけど」
「それはさっき聞きました」
「さっき言いましたけど、無視されたんです!頼むから黙って聞け!」
 僕は黙った。途端に、捲簾が喋り難そうに視線を泳がせた。どっちなんだ。
「寝ずに考えたんだけど」
「それで酒の匂い残ってるんですね」
「香水でごまかしたつもりなんだけど、残ってる?」
 ブルガリオムと捲簾の匂いが、酒に負けている。言おうと思ったけど、いかにも貴方の匂いを覚えてるんです的発言だったため、やめた。これ以上恥はかきたくない。
 この男に、負けたくない。
「お前とは、何つーかその、心のライバルだと思ってる」
 …は?
「うわー、さむ俺。でも、マジで、うん」
 何が、うん、だ。でも、本当に捲簾という男はどこまでも捲簾という男で、他人によって揺らぐことなどないのだと、心底思った。
「お前が俺、好きでも吐き気するくれえ嫌いでも、俺はお前、結構好きだし、結構っつーかかなり好きだし、」
 心に、亀裂が入った。
「…それ以上言ったらぶん殴りますよ」
「わかってる!お前がこーゆーの聞くの、耐え難いくれえプライド高いのも知ってる!俺のエゴ!エゴで喋らせ、」

 自分が、唇で人の言葉を遮るような人種だとは思わなかった。