Yuzu
 経理課のバイトちゃんたちをからかって「悟浄さんって彼女いるんでしょ〜?」「んー片思い中かなぁ」「きゃ〜かわいい」などと俺の売値をまたあげて(片思いもいいもんだ)戻る途中、ゴミ箱の中にキラリと光るものを発見した。
「…おいおいおい」
 手を突っこんで拾い上げると、やっぱり会社のフロアの鍵だ。
 一瞬血の気がひいた。
 早朝深夜の缶詰がないともいえないこの職場で、フロアの鍵を支給されているのは主任クラス以上。紛失したら会社中の鍵を入れ替える諸費用7,8万を自腹だ。何かと一緒に間違えて放り込んじまったんだろうが、かなりのアホだ。
 これは上に恩をうる大チャンス。
 俺は廊下をいそいそと引き返して総務を覗き、たまたま誰もいなかったのをコレ幸いとファイルを引っ張り出した。キーには4ケタの社員番号をナンバリングしてある。
「えーと…2…26の…」
 名簿を辿った俺の指が直ぐさま止まった。
 天蓬だ。
 …つまんねえの。
 俺は鍵をくるっと回してポケットに突っこんだ。次長とか部長なら、これを契機に酒でも誘って企画書を捲簾経由しないで見てもらうパイプでも作っちゃおうと思っていたが、のりの悪い天蓬じゃ相手したって全然つまらん。八戒に渡すのが一番美しい。
 ところが、折しも廊下の向こうから天蓬が進んできた。手にした書類から目を離さないまま、まるっきり前を見ていない。凄い集中力だが危ないぜそれ。あーぶーなー…。
 ガン!
 思ったとおり廊下の端のゴミ箱にぶつかった。八戒の母性本能を天然で刺激しようって魂胆か。まあ泣いて甘えた俺が言うこっちゃねえが。
「おっさん」
「…はい?」
 ずれた眼鏡を指で押し上げた天蓬は、文字通り夢から覚めたように俺を見た。
「今、何て仰いました?」
「別に。これゴミと一緒に落ちてた。あんたのだろ」
 俺が鍵を投げると、天蓬は何とか受け止めてマジマジと手の中を眺めた。
「…僕のですか?」
 苛々してきた。なんだこのぼーっとした男は。
「あんたのなの。それなくしたら洒落になんねーだろ。気ぃつけろよ」
「貴方が拾ってくださったんですか?」
「だから俺が持ってきたんだろうが」
「それはありがとうございます」
 天蓬は軽く頭を下げた。ああ、こういうひとつひとつ念を押すタイプの上司いるよな。だいたい部下に敬語使う上司って苦手なんだよ、なんか。慇懃無礼で「本音言ってません」って感じで。良かった、こいつの下じゃなくて。例え八戒と同じ部署になれたとしても半日で殴って追い出されそう。
「御礼しないといけませんね」
「いい。俺に構う暇あったら八戒に優しくしてやって」
 脇を通り過ぎようとしたところを、天蓬は誰に言うでもなく呟いた。
「やり方が分からないんです」


 正面玄関の自販機の脇で、何故か天蓬と一服する羽目になった。俺とはるほどのヘビースモーカーだとは今の今まで知らなかった。八戒は吸わないし、捲簾は吸うには吸うがせいぜい一日一箱ペースだ。
「貴方、どれくらい吸います。一日で」
「2箱半か3箱。酒呑めば4箱いくかな。あんたは?」
「素でも5箱になっちゃいますねえ」
「うわ、なんか悔しー。あーだからあんたの部屋みょ〜な匂いしてんのか」
 俺は天蓬が「借りを作るのは性にあわない」と言ってわざわざ買ってくれたハイライトの封を切った。
「吸いながら仕事してると図面に灰落ちません?キーボードに灰つもったり」
「あーすげぇよ。灰皿の上に図面重ねて置いてたら火が消えてなくて煙出たことある」
「だから匂いの強い煙草にしておけばいいんですよ。消えてないと絶対気がつく」
「やだ、まずいもんアーク。あんた趣味悪い」
 天蓬は微笑んだが、何も言わなかった。
「あんたの引くデザインも装飾過多で趣味悪いけど、男の趣味もすっげ悪い」
「すいませんね。でも貴方に似たところありますよ捲簾は」
「ねぇよ気色悪い」
 玄関を出入りする連中が、一瞬ぎょっとしたように俺らを見て通り過ぎていく。そりゃそうだ。こんな変な組み合わせ、まあ滅多にない。
「…キーボードに灰が積もるって言いましたけど」
「うん?」
「嘘です。毎日八戒が綺麗にはらってくれるんで」
 喧嘩売ってんのかこの野郎。どうせ俺のは灰で真っ白だ。
「ありがたくは、思ってるんですけど。どう言えばいいのか分からないんです」
 天蓬は甘ったるい匂いの煙草を揉み消し、胸ポケットを探って目薬を出した。
「…普通にしようとは思うんですけど、期待させるみたいで」
「あんたさ、その目薬八戒に借りたろ」
 ちょうど水滴が落下するのを計ったように言ってしまい、手元のくるった天蓬は二度差し直す羽目になった。確か今日出社する途中で八戒が買ったやつだ。
「何で俺の前で差すの。八戒の前で差してやりゃいいんだよ。それだけであいつは嬉しいんだよ。期待するかしないかなんて八戒が決めることだろ。嫌々御礼なんか言われたくねえし感謝されたいなんて思ってねえよ。あいつはあんたの役に立ちてぇの。あんたの目が楽になれば嬉しいの。そんだけ!」
 天蓬は何か言いかけて、ふと視線を俺の後ろに流した。
「聞いてんのか天蓬!俺と話す時は俺の目を見」
「どこで誰に何喋ってんですか貴方は!!」
 いきなり背後に現れた八戒に、後頭部をガンと殴られた。
「天蓬主任がいつまでも戻って来ないから探しに来てみれば!いくら悟浄でも主任困らせたら承知しませんよ、人のことより自分の心配でもしてください!前々から思ってましたがお節介甚だしいですよ貴方!」
「おまえへの心配はすなわち自分の心配だ!ほっとけ色ボケ野郎!」
「貴方とそんな夫婦関係築いた覚えありませんね!」
「まあまあ」
 仲裁だか合いの手だかよく分からないことを言って、天蓬は「よいしょ」と立ち上がり、目薬を八戒の掌にぽんと落とした。
「何だかいい感じですねえ貴方たち。じゃ、戻ります。楽しかったですよ悟浄」
 天蓬がトコトコ去っていく背中を、俺は呆然と見送った。楽しかったか?
「……いい、感じ、です、ねぇ?」
 やべ。
 俺も速やかにその場を立ち去ろうとしたが、八戒の唸り声に足が竦んだ。
「…どうしてくれるんです悟浄。貴方は僕を邪魔したいんですか協力したいんですか」
「協力します」
 協力。

捲簾に押し倒されてみるとか?