Yuzu
「天蓬主任!」
 地下鉄の入り口で声をかけたが勿論振り返らない。
 とりあえず存在証明だけしておいて、僕は天蓬主任の数歩後から階段を降りホームから電車に乗った。多分顔を見られたくないだろうから、背中合わせでつり革に捕まる。
 金曜日。車内は既に酔いのまわった乗客が笑いさざめいていて、片方は好きな男を殴ったばかりで、片方は一方的に横恋慕中で、どっちも厄日であることなど知りもしない。
 あと二駅で会社の最寄りというところで、天蓬はすっと入り口に向かった。
 どうしようか。
 窓に映った天蓬の後ろ姿。
 ひとりで、いたい…か。ひとりでいたくないにしても僕じゃいないほうがマシか。このまま乗っていけば僕は真っ直ぐ家に帰れる。捲簾と天蓬のことは二人にしか分からないから慰める気もない。弱ってるとこにつけ込む気もない。せめて仕事で役に立とうと思って今まで頑張ってきたけど、それだって、どうだか。ろくに誉めてもらったことも感謝されたこともない。努力だけじゃどうにもならない。
 …何もできない。
 そばにもいられない。

「八戒」


あまりに唐突で、一瞬自分の名前かどうかも分からなかった。
「手伝うんじゃないんですか?」
 天蓬が、いつもの無表情な顔で僕を見ていた。電車がゆっくりホームに止まった。


事務所に戻ると、天蓬は厚い封筒をふたつ引っ張り出して、僕の机にどさっと置いた。
「これは?」
「来週のコンペ。4つあるんですけど2つ貴方に任せます。ひとつは台東区の第一種開拓区域全般。イメージ図作成ですから2日で仕上げてください。もうひとつは横浜ですが22階建のホテル。場所を確認して。厄介なのが海の傍なのと駅からの空中通路、フロントは3階で5階までがショッピングモール。その一次構想図全部を来週の週末までにすべて揃えてください」
 天蓬は淡々と喋っているが、僕には「次の総理選挙に出馬してください」と言われたぐらいの大衝撃だ。…ホテル?22階?
「…ですが主任」
「ホテルのほうは貴方ひとりじゃ時間がないでしょう、僕名義で人を使って構いません。うまくまわして最高のものを仕上げてください。まあ悟浄あたりがこのての外装は得意でしょうし、宮佐古さんとこはショッピングモールについては資料揃えてます。周辺の交通に関してはその段階になったら僕に声をかけてください」
「天蓬主任、何故僕なんです」
「もちろん賭けです」
 天蓬はさらりと言ってのけた。
「貴方、僕がまだ好きですか」
 天蓬の目は切れるような鋭さで、好きだのなんだの口にするには余りに似つかわしくなかった。
「僕は貴方に興味がない。これからも貴方にそういう感情をもつことはかなりの割合でゼロに近い。それを知ったうえでここにいるからには僕もそれ相応のやり方で貴方に応えます。このコンペには絶対勝ちなさい。負けたら僕のチームから外します」
 僕は、笑ったかもしれない。
 こんな形で応えてもらえるなんて思わなかった。
「了解しました。負けた場合のシュミレーションなど必要ありません」
「勝ったら副主任に貴方を推します。ここにいる限り貴方は僕の片腕です」
 話はそれだけです帰りなさい。の退去命令を受けて、流石に僕は封筒を抱えて社を出る以外なかった。きっと、大丈夫だ。あの人は、ギラギラしてる。
 外は寒かったが、足下からぼこぼこと沸騰するような熱の塊が突き上げてくる。興奮でどこもかしこも熱い。
 負ける?僕が。あり得ない。
 やっぱり天蓬を好きになってよかった。どんな形ででも必要とされるなら構わない。天蓬の逃げ場は今、仕事だけだ。その仕事でこの僕に賭けてくれるなら絶対に負けはない。
 絶対にない。
あ。悟浄と捲簾。
 頭の中からすっかり消し飛んでいたが、どうなっただろう。別にどうなっててもいいが、悟浄にコンペの話をしたら飛び上がって喜んでくれるに違いない。早く言いたい。どっちにしろ協力してもらわないことにはどうしようもないし。
 携帯を握ったまま、僕はしばし迷ったが、結局番号を押した。
 捲簾と一緒にいるなら出ないはず。
「お、お疲れさーん」
 さっきまでのことが無かったようにやたら清々しい悟浄の声がした。
「どーよ天蓬。大丈夫?」
「大丈夫じゃないでしょうが仕事に活路を見いだしたようで。捲簾主任は?見捨てたんですか?」
 人聞きの悪い。悟浄はひとつ舌打ちした。
「見捨ててねえよ。チャンスやった」
「僕も今、天蓬からもらいました。考え得る最高の」
「…そっかぁ、よかったな。なんかいい声してんな。いいことあったと思った」
「それでもし良かったら、ちょっと仕事の話したいんですけど。行っていいですか」
 どうせ興奮しきって眠れない。悟浄はしばし考えているようだったが、やがて「うん」と返事が返ってきた。
「俺が行くわ。もしか捲簾と鉢合わせしたら、おまえ気まずいだろ」
 悟浄に呟かれて、ようやくさっき捲簾を平手で殴ったことを思い出した。しかも悟浄の目の前で。それじゃあとで、と電話を切ろうとした悟浄を慌てて止めた。
「…捲簾主任、怒ってますかね」
「いや平気。ていうか、あいつ、それどころじゃねえよ」
 …今度は何をやらかしたんだ、悟浄は。