haru
僕は僕であるしかない。

 図面に向かっていると、そんな風に思う。だから、僕が考え得る一番僕らしい答えを、八戒に出した。八戒はきっとそれに応えてくれる。一度も口にしたことも態度に表したこともないが、八戒の仕事の腕は本気で信用してるんだこれでも。
 事務所のエメラルドグリーンのカーテンに、薄日が射し込んできた。もう朝か。
 16杯目のコーヒーを淹れに給湯室へ行った。目に勝手に入ってきたのは、捲簾のマグカップ。黒くて、妙な形をしている。いつだったか、黒い容器にブラックコーヒーを淹れる神経がわからないと、捲簾に言ったことがあった。『何入ってんのかわかんねーよーな液体を喉に流し込んで、神経を集中させるの。』という言葉が返ってきた。意味がわからなかったが、何となく、少しだけ捲簾という男がわかったような気になった。
 こんなになってまでまだ、あの男のことを考える。
 仕事をしている間はまったく忘れていたのに、休憩するとすぐこれだ。だからと言ってノンストップで仕事をしてもし倒れでもしたら。
 …想像するだけでもおぞましい。

 数時間後、真っ先に出社してきたのはやはり八戒だった。
 八戒が追いかけてきたということで、捲簾が僕に何をしたのかを八戒に話したことがわかった。注意して見たり考えたりしたことはなかったが、八戒という男は、尋常じゃないくらいに自分を抑えて相手の立場になっていかに行動し、言動するかを完璧に把握しているように思えた。
 いつだって、僕のことを考えて僕のことしか考えないで、そうやって存在していたような気がする。今さらそんなことに気がついたところでどうにもならない。捲簾のことを忘れられるはずもない。
 八戒と一緒に悟浄が出社してきたことも、深く考えたりしない。

 その日、捲簾は結局一度も事務所には来なかった。勿論、休んでいるわけではない。家から直接営業先へ出向いて、会社に戻らずに直帰。よくあることだ。
「捲簾主任ってさあ」
 聞きたくもない言葉が、耳に入ってきた。営業の小林君だ。本当に本当にあの男を尊敬しているのが誰が見てもわかる。
「何でまた営業で主任になんてなったんだろ」
「え?どーゆーこと?」
 庶務の田中さんと、『アートデザイン』の11月号を見ながら談笑中らしい。
「だって元は、設計のほうにいたじゃん。まあ今だって兼任してるっちゃーしてるけどさ。僕思うんだよな、営業先ついてまわりながら、捲簾主任はホントは天蓬主任みたく設計ばかりしたかったんじゃないかって」
「しょうがないでしょ、捲簾主任は営業向きなんだから。うちの事務所小さいんだから、そんなこと言ってらんないのよ」
「でもなあ…」
 ガチャ、という音がして顔を上げると八戒がコーヒーをデスクに置いてくれていた。
「ああ、すみません」
「お疲れ様です。少しは休憩なさってくださいね」
 目の下にクマを作ったやつが言う台詞か。
 …まったく、どうしてこの男はこんなに。
 こんなに、僕のことがわかるんだろう。見えるんだろう。気づくといつもそこに居る、というか。
「八戒」
「はい」
 八戒が少し驚いたような顔をしたあと、すぐにいつもの笑顔に戻った。僕は椅子から8時間ぶりに立ち上がって、八戒のデスクに向かった。八戒が不思議そうに僕を見ている。
「台東のほうですね。もうほとんど完成じゃないですか」
 鳩が豆鉄砲を食らった顔、というのを絵に描いてコンクールに出したらたちまち入賞!という顔の八戒。それに気づかないふりをしてモニタを覗き込みながら僕は続ける。
「貴方の仕事は丁寧だ。いつか言いましたよね、僕の作るものは完璧だ、と。足すものも引くものもない、と」
「覚えてくれてたんですね」
 そんなことくらいで、そんな嬉しそうな顔しなくてもいい。
「才能がないからです」
 何故、今僕はこんなことを言ってるんだろう。
「想像する力がないから、だから丁寧に作るんです」
 煙草を口にくわえた。いつもの八戒なら、ライターをくれる。自分は吸わないくせに、僕用にライターを持ち歩いている。でも今僕は自分の煙草に自分で火をつけた。
「貴方は、僕の真似などする必要はない。せっかくもっているものがダメになる」
「何てこと…言うんですか」
 八戒の目は泳ぎ、声が震えた。それでも僕の口は止まらない。
「勘違いしないでください。僕は卑屈になっているわけでも自分を卑下しているわけでもありません。僕は自分の作るものが好きです。この仕事も。貴方と僕は違う、貴方は貴方の考えるように、想像するとおりに、僕が気に入るだの僕が好きそうだのそういうことは一切考えずに、作って欲しいんです」
 八戒の目を真っ直ぐに見据えたら、八戒は驚いたような感動したような悲しんでいるような、何ともつかない顔で頷いた。強く、強く頷いて、
―――はい」
 と、何もかもに納得をさせるように言って、もう一度強く頷いた。

 

 僕は僕であるしかない。

 僕は僕であるしかないから、僕は僕であるために、もうここにはいられない。