Yuzu
 天蓬が八戒に振った賭け。
 そういう形で八戒に出した答えを、俺はまず天蓬らしいと思ったし、その鮮やかさと潔さに感動さえ覚えたが、八戒が喋り疲れて明け方に眠ってしまった後に襲ってきたのは不安だった。あの男がこんなふうにきっちりきっちり階段を登れる男だとしたら、捲簾とのことや他の何もかもに鮮やかに潔く決着をつけるはずだ。そして前へ進むはずだ。
 なぁ天蓬。あんたもう、八戒悲しませたりしねえよな。
 勝ったら八戒はあんたの大事な手足になれるんだよな。
 八戒に押しつけられた資料を捲りながら、俺は煙草に火をつけた。ホテル。捲簾が昔から学校作りたかったのと同じように、俺にも作りたいホテルがあった。変な話だけど、人がそこに留まらないものに興味があった。誰のものでもない部屋。空中通路。立体駐車場。俺のひく図面には特徴がない、教授にもそう言われてきた。あまりにも機能重視に直線でものを作るから思い出にならない。設計士としての主張がない、夢もない、才能もない。
 でも決して人の邪魔をしない。
 はまりすぎてそこにあることを忘れる。
 それが、俺の。…俺の。
「…まだ寝ないんですか」
 八戒が寝返りをうった。
「俺、捲簾と付き合うかもしんない」
 ベッドの上に、今まで寝てたとは思えない礼儀正しさで八戒が真っ直ぐ起きあがった。
「なんでそういうことになったんですか」
「決めるのは捲簾。俺は待ってるだけ。捲簾がほんとに俺だけでいいって分かったら、あいつにする」
 それほど深く考えて言ったわけじゃなかった。
 まさか、抉られるなんて思わなかった。

「貴方、人に愛されたことがないんですね」



 捲簾は一日中会社に来なくて、八戒も天蓬も缶詰状態で、俺は昼休みに珍しくひとりで屋上に上って煙草をふかしていた。
 ああ、そうだ。そのとおり。
 俺は人に愛されたことがない。
 本当に本当に、俺だけが好きで俺だけに愛されたいなんて奴に会ったことがない。いや、思ってたやつはいたかもしれないが、誰も最初っから俺に期待しなかった。
 悟浄は誰にでも優しいから。誰のことでも同じように好きだから。誰とでも簡単に寝るから。不真面目だから。軽いから。誰とでも適当に話合わせるから。誰にでも笑うから。誰でもいいんでしょう。営業向きだよ。いい奴だな。おまえならきいてくれると思った。悟浄って便利だよな、ひとりいると。ひととおり何でもできるし。器用だし。無難だし。
 もう聞き飽きたっつの。
 封を切ったハイライトのビニールが、風に攫われて飛んでった。
 何が悪いよ。便利で何が悪い。俺と寝たいんなら寝るよ。そばにいてくれって言われたらいるよ。俺でいいんなら誰とでも。だから愛されないんだって言われても、困る。俺は喜ばれたいだけなのに。笑って欲しいだけなのに。
 八戒を好きになったのは、あいつが最初っから俺なんか見てなかったからかもしれない。期待しないで済むからかもしれない。面倒事は嫌いだ。もう一方通行でいいと思った。誰かと誰かがくっついて、その幸せのお相伴でいいと思った。
 そんな時に捲簾だ。
 俺は捲簾を愛してる。これは本当だ。
 あいつが何をしようが、例え人を殺そうが、あいつが100%悪かろうが、あいつの味方になる。これから一生会わなくても世界のどこにいても絶対に忘れないし、いつまでも愛し続ける。兄貴だからだ。他人じゃないからだ。その捲簾が俺を好きだっていうなら、捲簾にする。捲簾なら、捲簾だったら、捲簾だけが、俺をこのまま肯定してくれる。絶対に俺を裏切らない。俺を用済みにもしない。どうせ自分のものにならないからなんて理由で捨てられるのはもう嫌だ。
「…なんちゃって」
 俺は屋上のフェンスにがっくり凭れた。
 どーすんのよ俺。捲簾にまでふられたら。
 気がかわって天蓬と付き合うってことは、充分あり得る。
 八戒は天蓬にある種最高の答えをもらって、それに全部賭ける気でいる。
 …美しい。そのまとまり方は非常に美しいぞ。

 あなたって貧乏くじひくタイプですよね。

俺は八戒も天蓬も捲簾も笑ってくれてればいいの。みんな幸せで毎日楽しければ俺も幸せなの。あり得なくても、4人ともうまくなんていくはずなくても、俺はそれがよかった。
 寂しいのかなあ。寂しいんだな秋だから。空は信じられないほど遠くて高いし天気はいいし。
「悟浄、何たそがれてんのよ。捲簾主任宛で電話はいってんだけど訳わかんねークレームでさ、うるせえからちょちょっと愛想で巧く丸めといて。得意だろ」
 屋上に現れた宮佐古主任は、顎で出口をしゃくり、入れ替わりに煙草に火をつけた。
「…はーい」
 ほんと、俺らしい。愛想笑いが得意で便利な俺。
階段を降りたところで、天蓬と八戒がブースから出てくるのが見えた。真剣に意見を戦わせているかのように見えた。いや戦わせているんだろう。
 いい顔してた。
 見たことないほど。
 俺にはとうとう最後まで、あいつに何もできなかった。助けてやるなんて言って、助けてもらうばっかりで、ほんと、お節介にも程がある。
 俺には仕事に逃げられるほどの誇りも才能もない。
 どうしようか。どこに行こうか。

 逃げるな。
 頭の中で誰かが言った。