Yuzu
 台東のほうはさっさと片づいたが、確かに僕ひとりではホテルのほうまで手が回らない。
 仕事は家に持ち帰らない主義だがそうも言っていられないので、人のハードまでフル稼働してラインを繋ぎ、ROMで十数枚のデータを鞄に突っこんだ。人に頼んだ資料はあらかた揃っている。あとは悟浄だけ。
「天蓬主任、横浜に行って来ます」
 やはり現場を確かめないことには最終的なツメができない。天蓬は視線は机に据えたまま、脇のロッカーを定規で示した。
「そこに社のデジカメとポラロイド入ってます。必要なら持っていきなさい」
 僕は、天蓬が見ていないのを知りながら頭を下げて、両方を鞄に入れた。
 フロアを出たところで視界を赤いものがちらっと掠めた。
「悟浄!」
 聞こえたはずなのに、悟浄は更に数メートルいってからようやく止まった。
「俺、これから金子さんの接待あんだけど」
 金子さんが誰なのか知らないが、開口一番それは何だ。
「すぐ済みます。高層ものの設計図書とイメージ図セットでかなりの数持ってますよね貴方。まわしてもらえませんか」
 悟浄は、ああ、と小さく呟いた。
「急ぐよな」
「できれば」
「ちょっと待って」
 悟浄はすたすた自分のデスクに戻っていく。昨日あんなに念を押したのに、本気で今の今まで忘れてたようだ。後をついていくと、悟浄は「これと、これもか」とぶつぶつ言いながらファイルを捲って、いきなりデスクの中段の引き出しを丸ごと引っ張り出してどんと机に置いた。
 一斉に周囲の連中が悟浄を見た。
「これ全部。好きに使えよ。これも預けとく。足りなかったらどこでも開けて」
 ぽんと投げられたのは悟浄が社から個人で借りているスタックファイルの鍵だ。申請すればひとりでいくつでも合い鍵すら社が管理しないプライベートファイルを借りられるが、アイデアが財産の設計士ならともかく、営業部の人間でこれを借りている者はほとんどいないはず。
「…開けちゃったらまずいんじゃないですか」
「いーよ別に。ごちゃごちゃだけど適当にひっくり返して」
 悟浄は淡々と言うだけ言うと、上着と鞄を無造作に掴んでさっさと出ていった。信じがたい愛想のなさだ。
 姿が見えなくなると、僕はそっと周囲を見渡した。
 目が合った女性スタッフが、軽く首を傾げてみせる。
「…何かあったんですか、トラブルとか」
「別にないと思うけど?悟浄っていつもヘラヘラしてるから、たまに普通だと怒ってるみたいに見えるのよ」
 そういえばそうだ。別に無視された訳でもなんでもない。ごく普通だ。いまひとつ合点がいかないまま机を漁らせてもらい、廊下に並んだロッカーの中段に鍵を差し込んでファイルを開けた。
「…………」
 何故かAVが放り込んであるのはいいとして、御丁重に印鑑まで押してあるのもいいとして、何だこれは。
「…これが営業のロッカーですかね」
 いきなり背後で天蓬の声がした。
「…驚いた。いついらっしゃったんですか」
「今です。凄い宝の山ですねえ」
 天蓬は自分の資料を取りにきたらしいが、僕と同様、視線は悟浄のファイルに釘付けだ。今、日本中・世界中でいわゆる伝説になった建造物の建築図を手に入れるのは難しい。市場に出回ることも非常に希だ。その複写が、悟浄らしく整理はされていないがもの凄い量突っこまれている。建築家がこぞってビルを建てたがるシンガポールの大型建築から寺院からピラミッドまですぐさまレプリカ建築できてしまいそうだ。
「何のためにこんなに集めたんでしょう」
 天蓬がぽつんと呟いた。
「何のためにって、趣味じゃないですか」
 言ってはみたが馴染まなかった。悟浄は建築物に対して僕や天蓬のような執着も情熱もなかったし、プライベートでそんな話が出たことも一度もない。仕事は仕事、趣味は趣味で完全に割り切っていた。実際に、就職先は建築事務所でなくても良かった、俺にできる仕事だったら何でもいいんだと、よく言ってた。
「どっちかというと貴方の趣味じゃないですか?八戒」


 横浜。
 カップル。女性グループ。ビジネスマン。熟年夫婦。
 …とんでもなく幅広いな。
 僕は駅一帯を見渡せる歩道橋の上で、頬杖をついて人の流れを眺めた。これは下手に造りこむとコケる。凝るべきは装飾じゃなくフォルムだ。となると。
 途中までは確かにホテル構想を練っていたのだが、途中から蟻のように渦を巻く人波に目をとられた。
 こんなに大勢人がいるのに、何だって僕は、わざわざあの人を選んで好きになったんだろう。何だって手の届かない天蓬を。何か理由があったはずだけど。
 不意に目の前が真っ赤になった。
 薄く雲がかかっていた空が晴れて、ぎょっとするほど大きな夕日が真正面に現れた。
 …色。
 そうか。外壁を突拍子もない色に塗るわけにはいかないが、差し色ほどインパクトのあるものはない。差すとしたら、リラックスできて、好感度の高い色。
 僕はそれ以上この場所で考えるのをやめて、どこもかしこも赤くそまった通路を駅に向かって歩き出した。
 赤はパスだ。
 人を落ち着かなくさせる。 
 それに。
 それに、強すぎる。