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うちの事務所は、創立30年そこそこにしてはわりと業界の中ではメジャーなほうだ。いや、正確に言えばここ5年で飛躍的に名前が売れた。不思議なのは、その躍進に多大に貢献した一級建築士の捲簾が、今は営業との掛け持ちで本業の活躍が影を潜めてしまっていることだ。
 捲簾は、他人に自分の夢だとかこうしたいだとかいつかはこうなりたいだとか、そういう希望や目標を語ることはあまりしない。本当に捲簾が何をしたいかのは、多分、悟浄しか知らない。悟浄しか。
 悟浄だってそうだ。悟浄のロッカーを見て、正直当惑した。貴重な資料をあれだけ集めるということは、よほどのコネか努力がないとできない。悟浄にそんなコネがあるなんて聞いたことがないし(そんなコネがあれば仕事でとっくに使ってる)ということは、悟浄が努力して集めたということになる。
 一体、何のために?悟浄という男は、部署違いの僕から見ても、仕事は確かに出来るが、それほどの情熱や信念や思い入れがあるとは思えなかった。

 …関係ない、もう。僕には、もうどうでもいいことだ。

「…天蓬さん?」
 高級レストランにて、関東最大規模と言われる建築事務所の社長と会った。噂に聞く通りの美人で、おまけに人当たりも良さそうだ。当たり前だ。この若さで、会社をここまで大きくした女性の愛想が悪かったら吃驚する。
「どうかした?」
「いえ、すみません。お話、続けてもらえませんか」
「単刀直入に言うわ。あなたが欲しいの」
 うーん、ここが高級レストランでもなく周りに人がいなかったりしておまけにパノラマ夜景に照らされたホテルだとかだったら、完全にとって食われてただろうな。
「あなたの過去の作品、すべて見せてもらったわ。最新作の水族館、あれが一番好き。海の中に螺旋階段があるみたいで、その階段が竜宮城につながってるみたいに思えてね。あら、子供っぽいとか乙女思考だって笑う?でもね、あなたのそういう夢のある作品を見て思ったの。水族館の設計してて、楽しかった?」
 酔った、とはさすがに言えない。しかも何だか、腹の中が読まれているみたいでぞっとしない。
「クライアントからの依頼でつくったものですから」
「でしょうね。私があなたの水族館に惚れた理由は、そこ」
「は…?」
 藤林素子は、くすり、と人好きのする微笑を浮かべた。笑ったら、もっと若く見えるな。僕はどうでもいいことを思った。
「好きでもないのに、人に夢を与えるようなものをつくる神経がわかんないの」
 嫌悪した理由ではなくて惚れた理由がそれか。さすが、だ。
「あなた、屈折してるって言われるでしょ」
 少なくとも、初対面の人間に言われたことなどないが。
「私も。屈折してるの。だから、あなたの作品をもっと近くで見てみたい。観察したいの」
 要するにプロポーズされてるわけだ。
「勿論、相応の報酬は考える。今の事務所の3倍はいい暮らしできるわよ。まあ、あなた、そんなこと興味なさそうだけどね」
「さすがですね」
「え?」
「人を見る目、ですよ。さすがだ」
「こう見えても、社員千人抱えた会社のトップよ」
 藤林素子は、そう言ってまた、あどけないほどの爽やかな笑顔を見せた。

 即答、しても良かった。だけどまだ、僕が今の事務所でやるべきことが残ってる。
 八戒だ。結果的には多分、八戒を裏切ることになる。
 …連れて行こうか。
 一瞬そう考えた。だけど僕が八戒を連れて行くと、捲簾にとっての邪魔者がいなくなるわけで、悟浄と幸せハッピーエンドを迎えてしまうことになる。あの男の性格を考えると、そうなりそうにもないが、僕がわざわざ捲簾が幸せになれるかもしれない場面をつくってやるなんて、あり得ない。
 自覚してる。僕は性格が悪い。好きな男の幸せを願えるほど強くない。

 好きな男の幸せを願えるほど、自分が嫌いでもない。

「あ、主任、おかえりなさい」
 藤林の社長との接待というか会食というかデートというか、そういうものが終わって事務所に戻った。八戒がいた。ここはホッとするところではない。それなのに、ホッとした。してしまった。
「下見、どうでしたか」
「ちょっと、いいものが浮かびました」
 いい顔だ。八戒がいい顔で笑ってる。この男にこの顔をさせてるのは、多分この僕で、この男のこの顔を壊すのも、多分この僕だ。
「台東のほうは、完成しました」
「これでホテルに専念できますね」
「ええ」
 八戒の嬉しそうな顔からモニタに視点を移した。藤林社長の言葉を思い浮かべてみる。
「八戒、僕は屈折してますかね」
「…は?」
「間違えました、僕の作品。屈折してますかね」
 八戒は少し困ったような顔してから、目を細めた。不思議だ。
 この男が、もう怖くない。
「見るものを突き離したような孤高、というか。そういうものは感じます。以前主任は、僕を信じてるって言ってくれましたけど、やっぱり主任は誰も信じてないような気がします。捲簾主任のことも」
 あの男のことを信じてるわけがない。
「お気づきかもしれませんし、言うのは何だか橋渡ししてるみたいで癪なんですけど、天蓬主任の作品ってマイホームだとかペンションだとか、そういう落ち着きを感じるべき場所っていうか。そういうのはないでしょう?それは、捲簾主任が天蓬主任にそういう仕事をもってこないからです。水族館とか、日常とは離れたアミューズメント施設の仕事ばかり、捲簾主任がもってくるからです」
 真っ直ぐに僕を見据えてから、八戒はモニタに視点を落とした。
「…悔しいな。僕だってわかるのに、貴方のつくるもの、つくりたいものがわかるのに」
 僕も営業と兼任しようかな、と、笑いながら八戒は呟いた。

 僕は、あの男のやりたいことすら、わからない。