Yuzu
 もうとっぷり日も落ちた事務所で『誰にでも分かる風水』なるうさんくさい(といっても立派に会社の資料だが)書物をペラペラ繰っていたところへ、八戒がふらっと現れた。
珍しい。甲斐甲斐しそうに見えて実は損得でしか動かないこの同期は、余程の事が無い限り部屋を移って来ることはない。
 理由は簡単だ。
 同じ部署のお目当ての誰かさんから目を離したくないからだ。
「悟浄、お手すきなら夕食ご一緒しませんか」
「おまえ風水詳しかったっけ」
「貴方と僕のお仕事は何でしたっけ」
 建築事務所で風水の基本も覚えていない奴など俺だけだ。覚える気がないからだ。馬鹿馬鹿しい。
「家主がうるせえのよ。給排水衛生設備図の真ん中に穴開けてここは窓にしろだの、この壁は風水的に黄色がいいけどこっちは緑だだの、一体俺は何を作ってるんだ?年収600万の会社員小坂夫妻のためのささやかなマイホームか?ビックリハウスか?でかい仕事は全部ぶんどりやがってあの馬鹿捲簾」
「ところで夕食を一緒にどうでしょう」
 聞いちゃいねえ。
「多分奢りですよ。天蓬主任と捲簾主任、役職付きがふたりもいますから」
「行く」
 俺は即座に風水を丸ごと投げ出した。タダメシにつられた訳では決してなく。

 八戒とは同期入社なので、研修名目で一緒に動くことが多かった。はっきり言って面倒な奴だ。愛想もいいし穏やかで、ぱっと見好感度は高いのだが、日がな一日一緒にいると、その二重三重に張り巡らした壁がよく見える。悩んでても辛くても俺のように顔や態度に出さない。誰もこいつを心配しない。八戒は大丈夫だと思ってる。俺も思ってた。それが、いつだったか夜中に忘れ物を取りに事務所へ行ったら、こいつが山のような書類を積み上げて机に向かっていた。ひとつ間違えば損害額何千万単位の大トラブルを、八戒は何日も居残ってたったひとりで処理していたのだ。
 会社員としてそれはどうかと思う。社内全体で負うべき責任だ。
 ぶっちゃけ直属の上司である天蓬がとるべき責任だ。
 俺だったらひとりで抱え込んだりしない。堂々と上司を巻き添えにするだろう。残業手当もきっちり請求するだろう。事が片づいた暁には、全員で手を取り合って乾杯するだろう。
 たまたまその場に居合わせた手前ほっとけなくて、渋る八戒を手伝ってふたりで片づけた。何とかつじつま合わせが終わった途端、それまで余裕の笑みを浮かべていた八戒が、がたがたっと崩れた。それまで不安とストレスでボロボロだったのを、隠して隠して隠し通した緊張の糸が切れたのだ。
「内緒にしてくださいね、天蓬主任には。カッコ悪いから」
 主任の手を煩わせるほどのことでもないし。おまけのように付け足した、それで分かった。こいつは不器用で甘え方を知らない。手の抜き方も感情の示し方も分からない。
 天蓬は、知らない。
 そんな訳で、俺はこいつのささやかな、ほんの些細なSOSも見逃すまいと無駄に必死だ。そんなことをプライドの高い八戒が知ったら憤死するだろうが。

 『QUARTET』は接待にも使えるちょっと洒落た内装のレストランバーで、本来は男4人で晩飯食うには勿体ないような店だが、近いのとテナントつながりでツケがきくのとで事務所の連中は重宝している。テキパキオーダーをまとめる斜め向かいの天蓬と、その天蓬から一瞬たりとも目を離さない隣の八戒が面白くて交互に眺めていると、向かいの捲簾がトンと腕を突いた。
「富雄不動産の件、次回契約まで落ちてきた。ありがとな。勘定俺がもつわ」
「それはいいからブルゾン」
「わーったっつに。帰りにうち寄って持ってけ」
「何です、ブルゾンって」
 八戒。俺に喋る時は俺を見ろ。
「ふがいない主任の穴埋めしてやった御礼にゲットしたの。ほら捲簾が時々着てくるナンバーナインの」
「え!?」
 いきなり天蓬が頓狂な声と鋭い視線を向けたので、俺は一瞬立ち上がって逃げようかと思った。
「ブルゾンってあれですか、捲簾。貴方のお気に入りじゃないですか。あげたんですか?悟浄に?」
「ていう約束だから」
「…そうですか」
 天蓬はもう一度俺を見た。
 うっわ。何この視線。俺がいったい何をしましたか。
 隣で八戒がクスクス笑った。何が面白いか。
 天蓬見立ての食前酒が注がれ、4人はグラスを持ち上げた。乾杯の音は斜めに位置する俺と天蓬のグラスの間では鳴らなかったがきっと多分気のせいだ。
 食事の間中、八戒の視線は天蓬に直進し続け、人ごとながら顔に穴があくんじゃねーかと心配になるほどだった。天蓬とは仕事上接点がないのでよく分からないが、まあ、穏やかな言い方をすれば八戒のことがそんなに好きじゃないんだろう。追えば逃げるという典型的図式だ。不器用な奴。
 俺と違って八戒は、そう軽々しく人に惚れたり執着したりしない奴だ。それがここまで包み隠さずのめり込むからには、本当に本当に好きなんだろう。
 うまくいけばいいのに。
 …本当に。

 食後のコーヒーになって、八戒がトイレに立つ間際、俺にちらっと目をやった。
 そこで俺も続けて席を立つ。角を折れたところで待っていた八戒は、俺を見るなり爆笑した。
「面白すぎますよ貴方。主任が可哀相じゃないですか」
「意味が分かんないです」
「嘘ばっか。薄々気付いてたくせに。天蓬主任は捲簾主任が好きなんですよ。その前でブルゾンがどうこう…あー可哀相に」
 八戒はほとんど涙目だ。
「変なやつだな」
「何がです?」
「自分の好きなやつが別の男を好きな話を、よく笑いながらできるな」
「そんな今更。どうせなら片思いを満喫します。僕は天蓬主任には嫌われてますから、めいっぱい」
 ここのトイレはなんで真っ赤なんだろう。トイレなんだからもっとリラックスできる色にすればいいのに。俺はどうでもいいことを考えた。
  赤色は、何だか人を心穏やかでない気持ちにさせる。
「でも好きなの?」
「好きですねぇ」
「哀しくねーか?」
「人生そんなもんです」
 絶対違う。
「俺にしとけばいいのに」
 言った途端トイレに流されてしまいたくなった。そうだ、俺は疲れてたんだ今日。酔いがまわった。しかもトイレが真っ赤で。天蓬からはあらぬ疑いをかけられて。そんでこいつはこんなに…。
 こんなに馬鹿で。
 八戒は不思議に落ち着く色の目で、鏡の中から俺を見た。
「…ありがとうございます、悟浄」

 もう俺にまで無理して笑わなくていいよ馬鹿。