Yuzu
 頭が痛い。
 カーテンを閉め忘れて寝たせいで、目を開ける前にビームのように瞼に直射日光が刺さった。
「……もう7時半ですか」
 ひとり暮らしが長いと独り言が多くなる。
 昨晩は夕食の後、当然のように同じマンション住まいの捲簾と悟浄が同じバイクで帰ってしまい、僕は不機嫌そうな天蓬と駅までの数分を並んで歩いた。特に襲いも口説きもしないのに、その数分で確実に彼の不機嫌は増したようだ。
「…悟浄に悪気はないと思いますけど」
「聞いてません」
 はいそうでした。
 寝付かれなくて家で酒を呑み足したら、案の定天蓬の夢を見た。夢の中ではうってかわって優しいという訳でもないところが、せめてもの救いだ。起きたくなくなる。ついでに悟浄も出てきたような。
 重い体を引きずってコーヒーを淹れ、窓から雀をぼんやり眺めているうちに血圧が上がってきた。忘れていればいいものを、血の巡りと一緒に頭の回転までたちまち良くなり、昨日のことが巻き戻したように鮮明に戻ってきた。
「…まいりましたね」
 本当にまいった。
 悟浄と捲簾は事務所内でも一際目立つほどの仲のよさだ。あっけらかんとした性格も物言いも兄弟のようによく似ているし、仕事の息もぴったりだ。会社で四六時中顔を合わせている癖に、休日でも一緒に遊び回っている。そりゃ天蓬でなくても妬くだろう。だから安心していたのに。天蓬の片思いが片思いのままなら、こっちにも希望はあると思ったのに。はっきり言ってしまえば、悟浄と捲簾がくっついてくれることを期待していた。
 俺にしとけばいいのに。
 …何だそれは。嬉しくない訳はないが、話が違う。
 まあ、あの死ぬほど人のいい男の言葉をいちいち真に受けることはない。その場のノリで励ましてくれようとしただけだ。そうに違いない。そうに決まった。自分で言うのも何だが百戦錬磨の悟浄の趣味が、そこまで悪いとは思えない。
 流しに勢いよくカップを放り込んだところで携帯が鳴った。
「…捲簾主任?」
 小さな事務所だから社員数もしれている。一応社員名簿でアルバイトから社長の番号まできちんと登録してあったが、直接仕事の関わりがない捲簾から携帯に電話が入るなど、入社して以来これが初めてだ。
「おーおはよう。悪いな、朝っぱらから」
 気のせいかいつもより掠れた捲簾の声に、思わず自分の家の台所で姿勢を正した。
「何かあったんですか?」
「別にねーけど頼まれてくんねえかな。悟浄の午前中の仕事のフォロー。俺、今日出先に直行で夕方まで会社戻れねーのよ」
「構いませんけど、悟浄はどうしたんです」
「ここで酔いつぶれてる。蹴っても起きねえ」
 思わず肺の奥から溜息が出た。
「つぶれてるんじゃなくて、つぶしたんでしょう。ヒキガエルみたいですよ貴方の声」
「ああっそういうこと言う!?こいつが」
 声が揺れたところをみると、悟浄にもう一発蹴りが入ったらしい。
「このアホが勝手に荒れて呑みたい呑みたい言うから付き合ってやっただけだ。おかげでこっちゃ三日酔いなんだよ!……うーわ、自分の声が頭にガンガンくる」
「ご愁傷様です」
 捲簾が何か言う前に通話を打ちきって流しに置いたカップを拾い上げ、2杯目のコーヒーをどぼどぼ注いだ。
 …僕のせいみたいな気になるじゃないですか。
 人に気を使われるのも嫌いだし人に気を使うのも嫌いなのに、その僕の良心を痛めつけるとは何て男だ。貴方が出社した時には何一つ出番がないところまで片づけておいてあげますよ。
 風水は得意なんです。

 ふたりぶんの仕事をこなしていたせいで、天蓬に昼食の誘いをかけるのを忘れていた。誘ったところで大概にべもなく断られ、無難に悟浄とランチになるのだが、数うちゃ当たる方式で一応毎日声をかけてみる。悟浄に言わせると逆効果だそうだが。
 そうだ。やっぱり昨日のあれは戯れ言だ。
 おまえってホント極端だな。押したら引いて、向こうがつんのめってくるのを待つんだよ。
 どこの物好きが、好きな相手にわざわざ恋愛指南なんてしてくれる。もっとも言われて大人しく引けるほど余裕がない。目の前に標的がいるのに黙って待てるほど器用じゃない。
「…八戒」
「…え?あ、はい何でしょう」
 珍しく向こうから話しかけてきた時は小言に決まっているので、僕は慌ててロットを放り出した。
「貴方は、僕のどこがいいんですかね」
 どういう風の吹き回しだ。昼食時で静まりかえったフロアで、天蓬は火のついていない煙草を銜えて視線を手元に落としたままだ。
「…どこと言われましても、別に部分部分をとって人を好きになるわけじゃないですから」
「キレイゴトはいいです」
「プライドが高いところが」
 天蓬は、ゆっくり目をあげた。
「…そういう誰も信じてないような目とか」
「信じてますよ」
「誰をです」
「貴方をです」
 同じ速度で、視線が落ちた。
「貴方の僕への気持ちはきっちり信じてますし、貴方の前で守るプライドなんか何もありません。だからいい加減諦めてもらえませんか」
 僕は、机の端まで転がったロットの蓋をきっちり閉めた。
「貴方の作るものが好きですね。足すものも引くものも何もない完璧なフォルムです」

 水族館をたたき壊す訳にはいかないだろう。