Yuzu
 俺はスタックファイルを開けて資料をどさどさバッグに詰め込んでいる最中だった。
 大半の社員は退社したし、捲簾と天蓬は連れだって出ていったが出先はQUARTET。すぐそこだ。捲簾はともかく天蓬は戻ってくる可能性大。入り口にばかり注意を向けていて、背後の八戒に気がつかなかった。
「何してるんです悟浄」
「おわ」
 通りすがりにふと声をかけてみたという感じではなかった。完璧に詰問調だ。
「…どうするんです、その資料」
「どうもしねえし、どうしたって俺の勝手。おまえ、もしまだ使えそうなのあるんだったら持ってって。社内中配りまくったけどまだ余ってるやつだから。ほら天蓬とか好きそうなの、俺知らないし」
 できるだけ淡々と喋ったつもりだが、八戒は既に猜疑心の塊だ。
「お聞きしたいことがあるんですがね」
 何だか天蓬に似てきたな。
「捲簾が、貴方は本当は人と関わりたいのに、でもどうやっていいのか分からないから仕事の資料だって山ほど集めてるけど自分のためには使わないって、そう言ってました」
「偉そうに」
「そうなんですか」
「どうだかね」
 半分正解。
 最初はひと束ずつ鞄に落とし込んでいたが、面倒になってざっと棚ごと薙ぎ払った。そうなると思っていたが、指を切った。何だか自分を苛めたいというか、取り返しのつかなくなるような事をしたい気分があんじゃん。そういう日。
「捨てるんですね」
 ここまで手荒に扱うのを見れば八戒じゃなくても気がつく。
「辞める気ですか」
「おまえ何の用よ」
「相談にのってほしいんです。こないだ泊まりにきた時にも言ったでしょう。横浜のホテルにプライベートでしょっちゅう泊まるようなライフスタイル送ってる人、貴方しか知りませんから。こればっかりはセンスでも努力でもどうしようもないんです、客の目には勝てません」
「おまえの大好きな上司は行きもしない水族館の階段、平気で作ってるじゃん。客が何を欲しいかなんて考えずに机の上だけで組み立てたもんが立派に賞賛浴びてんじゃん。業界受けの設計士でも馬鹿な金持ちはネームバリューに釣られるもんな。ご立派だよ。俺、あいつの作るもん大嫌い。うるせえくらいに自己主張してて吐き気する。俺は芸術作品には興味ねえの、実用品が好きなの。就職先を間違え…」
「悟浄!!」
 それほど強い力じゃなかったが、叩き落とされた紙の束が、一度切った傷にもう一度食い込んだ。八戒が怒鳴ったのは俺が天蓬の悪口を言ったからじゃない。俺の「取り返しのつかないことをしたくなるような気分」をぶった切る為だ。
 ぶった切られて動きの止まった俺を、全員定時できっちりあがって照明のおちた総務部の椅子に座らせておいて、八戒は棚から救急箱を取り出した。
「あの資料は何のために集めてたんですか」
 八戒の声はもう尖っても冷たくもなかった。
「…知ってるくせに」
「僕のため。いつか僕に大きな仕事が振ってきた時のため。ああ、それで捨てちゃうんだ。貴方、カタチから入る人ですね」
「舐めて」
 苦し紛れの冗談だったが、八戒は大真面目に人指し指の傷をぺろっと舐めてくれて、絆創膏を丁寧に巻き、上からぎゅっと握った。掴まれた人指し指が痛いくらいドクドク脈打って熱い。
「…血、止まりそうなんだけど」
「止めてるんです。捲簾は、貴方のことを一番知ってるのは自分だって言ってました」
「…身内のことなんざ何も見えねえよ。俺だって捲簾が何考えてっか分かんねーもん。今、天蓬と会ってっけど、天蓬をふるのかふらないのか分かんねえもん」
 八戒はくすりと笑った。
「何を言ってんだか。どっちでもいいように手をうってあるじゃないですか。主任ふたりがくっつけば、僕がひとりになって貴方はチャンス。ふたりが決裂すれば、貴方は捲簾とつき合える。…貴方の人間関係巧く切り回す姑息さに関しては、捲簾より僕のほうがよく見えてます。捲簾は貴方を溺愛しすぎて貴方の性格の悪さを全部弟の可愛げで片づけてる」
 まあずけずけと痛いこと言ってくれるわ。
 八戒は何で俺に構うんだろ。仕事上のアドバイスが欲しいから。まさか。俺の言うこと聞いて作ったら天蓬がOK出すわけがない。何せ正反対なんだ、俺とあの高慢チキは。
「おまえねえ、俺は同じ奴に二度もふられる趣味はないの。おまえにふられて捲簾にふられたら、俺、今度こそ立ち直れねーじゃん。そろそろ俺も安定したいの」
「僕がいつ貴方をふりましたか」
 
 八戒は、いつもいつも俺を抉る。

「……ふられて…はないけど、天蓬が好きなんだったらふられてるじゃん」
 何言ってんだかよく分からない。
「貴方は愛されたことがないから捲簾の愛情を錯覚してるんです。貴方も捲簾もお互いに一番気楽でぬるくて安心で傷つかないから、恋もなしの家族愛で満足しようとしてるんです。好きっていうのは単に気持ちよくて落ち着くことじゃないんです。不愉快が好きに勝つことだってあるんです」
 天蓬のことかな。
 捲簾に「天蓬に吐き気がするって言われた」なんて聞いたことがあるが。その時は何て屈折した表現をする奴だと思ったが、表現じゃなくて本当に吐き気がしてたのか。
 まあ待て俺。今、俺の直面している問題は天蓬の屈折率じゃない。
 八戒だ。
「…つまり要するに何だ?俺と捲簾の仲におまえは異議を唱えてるわけか?」
「まあそうです」
 八戒はパチンと救急箱の金具を止めた。
「さて、横浜でホテルを選ぶ基準を教えて頂けますか?御礼に本当のこと教えますよ。誰も知らないことを」

 捲簾。
 なんか知んないけど、俺はピンチだ。