Yuzu
 悟浄は、自分が自己主張もしない、印象にも残らない、使い勝手のいい人間だと思いこんでいるが、自らそうありたいと思っているだけで本当は正反対だ。
 その髪と目の色だけで充分すぎるぐらい人を引っ張り寄せるのに、尋常じゃないほど優しい。暴力的なほど優しい。もし目の前で人が車に轢かれそうになったら、それが僕でも天蓬でも捲簾でも、例え見ず知らずの人でも何の躊躇いもなくあっさり飛び込むだろう。死んだところで欠片も後悔しないだろう。
 悟浄は自分を大事にしない。
 だけど、一番好きなのは自分自身だ。
 好きと大事にすることは違う。
 悟浄が人に優しいのは、そうしないと罪悪感に苛まれるからだ。人のために苦労を厭わないのは、そうしておけば自分を責めずに済むからだ。天蓬に臆面もなくボロクソ言えるのは、天蓬が恋敵であるという真っ当な大義名分があるからだ。悟浄に何を言われても、僕のことがあるから天蓬は差し引いて聞くだろうという計算があるからだ。
 悟浄はそれに気づいていない。頭じゃなく本能で一番安全な道を選び取ることを知っている。甘え上手なその狡さと、単刀直入な素直さとの無茶苦茶な矛盾が、時々、無性に腹立たしい。

「…赤?」
「赤」
 いつ天蓬が帰ってくるか分からない場所じゃ落ち着かないと言い張って、悟浄は夜の屋上に僕を引っ張り上げた。
「差し色は赤だね。絶対赤」
「強過ぎやしませんか」
 悟浄はフェンスに凭れて煙草をふかしていたが、いきなり僕の両肩をひっつかんでぐるっと外に向けた。ビーズをぶちまけたような光が渦を巻いて、遮るものもない東京の平野を右へ左へ動いていく。
「何色が見える。赤だろ。目がいくだろ。青だの白だの黙ってても海や空にある色なんか人間が作るものには必要ねえよ。横浜は遊び場だから安くて小綺麗なホテルはわんさかある、そこから浮き出すためにはほんのちょっと高級なイメージ。赤は上質で高級な色だ。貴族の色」
「…でも好き嫌い分かれる色ですよ」
「赤が好きだっていうのは勇気がいるからみんな言わないだけ」
「どういう意味です」
 悟浄はぱっと僕から手を離すと、コンクリートにペタンと腰を下ろした。
「赤が好きって女と青が好きって女がいたら、男は青をとる。赤は自己主張が強くて情熱的なイメージがある、早い話が負けそうな気がする訳よ。でも憧れる。人の顔色うかがってばっかで主張も理想も美学も力もない、あったま悪い女が、私は赤が好き、なんて言ったら笑えねーかおまえ。赤は強い。その赤が好きなんて言うからにはそれに見合ったパワーが必要な訳。無意識に周囲がそれを要求する。あの町に癒されにくる奴はいない、連中エネルギーの塊だ。赤でいい。そこに住む訳じゃねえんだ。おまえの建てるホテルは連中の憧れになる」
「凄い偏見」
「口からでまかせ。忘れろよ」
 赤だ。
 下から突き上げてくる風が、今夜は生暖かい。
「主任たち、戻ってきましたかねえ」
「ごまかそったってそりゃねーぞ。誰も知らないことって何よ」
 悟浄はフェンスをずるずる滑り落ち、ほとんど寝ころんでいる。
「天蓬主任に引き抜きの話があります」
 凄い勢いで悟浄が飛び起きた。
「何、どこ、何で分かったの」
「藤林さんところ。電話を取り次いだのは僕なので」
 闇でも光りそうな赤い目がしばし宙に泳ぎ、ゆっくり僕のところに落ちてきた。
「何じゃそら。ふざけてんな、とことん。おまえは置いてくのか?」
 喜べばいいのに怒るところが悟浄らしい。一番最後の質問は無視した。
「薄々感づいている人は他にもいます。誰も知らない事っていうのはそれじゃなくて、僕が喜んでることです。天蓬主任がいなくなれば、あの部署で一番腕がいいのは僕なので」

 悟浄の目は綺麗だが、そりゃあもう誰よりも、天蓬よりも綺麗だが、怒った時が一番いい。泣いても綺麗だが、彼に泣かれるとちょっと冷静じゃなくなる。とりあえず「俺のこの葛藤はなんだったんだ」とか「あの野郎が好きじゃなかったのか」とか「言い訳しねえといますぐここから突き落とす」とか喚くだけ喚かせておいて、息切れしたところで、できるだけ率直に思うままを話した。

 天蓬のことは勿論とても好きだし、永遠に好きでいると思う。尊敬の念も憧れもある。だから最終的には今、天蓬がいる地位につきたいと思うのは当然だ。天蓬ほど腕がよければ引き抜きはあってしかるべきだし、そのほうが設計士としていい環境に置かれるのであれば部下として大歓迎だ。元々毛嫌いされていたのだから、今後どれだけ腕を認められようとあの人は自分を扱いづらい部下としか見ない。なら一旦目の前からいなくなっても同じところまで追いついて、無視できない立場まで上り詰めたときに改めて向かい合えばいい。あの人は絶対に自分を愛さない。ならせめて評価されたい。いや、最終的には勝ちたい。

 悟浄は座り込んだまま、僕が喋るのを、瞬き以外の動きを一切しないで黙って聞いていた。
「…つまり僕のプライドはあの人に負けず劣らず高いんです。無視されるのは我慢できないんです。ついでに言うと貴方が捲簾主任にあっさり鞍替えするのも大層不満です。好きなのは天蓬ですが貴方も勿体ない。僕より先に貴方を知ってるからって安易にお兄さんにもってかれたんじゃ僕のプライドはズタズタです」
 悟浄はいきなり笑った。
「責められねえな。俺も捲簾も、多分そんな感じだもん」
「かといって赤が好きと言えるかっていうとね。貴方は天然で容赦ないから相手するには覚悟が入りますね、負ける覚悟が」
次のひとことが、悔しいことにまた僕を驚かせた。
「何で俺が赤なの」
 自分で自分をまったく見ていない悟浄。
 自覚した時が、本当に、怖い。
「…さーて、どうなったかねQUARTETは」
 悟浄は先に階段を降り、振り返って笑った。
「どうなってても貴方は困らないでしょうに」
「そんなことねえよ。おまえのこと前より好きになった。すげ困ってる」

 今、奪えば奪える。
 
 躊躇したその一瞬で、悟浄はあっと言う間に踵を返して見えなくなった。