haru
 「お受けしようと思ってます」
 社長に呼び出されたので、あれこれ言われて怒られたり泣きつかれたりする前に、こう言った。何故か社長は、僕が藤林から引き抜きの話がきていることを知っていた。この分じゃ、社員はほとんど知っているだろう。うちの会社はいつもそうだ。社長が一番何も知らない。社長から話がある、というのは最終段階であり、仕上げだと考えるべきだった。
 だから言った。
「お前さんの実力なら当然なのかもしれんがな…知ってるとは思うが、捲簾のヤツもうちを出る気かもしれん」
 …は?
 初耳だ。社長が知ってて僕が知らないだなんて、あり得ない。あり得ないということはガセだからか。
「わからんがな。営業より設計に専念したければうちを出ればいいことだしな。捲簾は仕方ない。俺が仕事をやらなかったのが悪い。だが、天蓬。お前さんには、お前さんに合った仕事をだな」
「見つけてきたのは捲簾主任です」
「…まあ、そうだ。お前さんのつくるものやつくりたいもの、それが一番わかってる上で仕事をもってきてくれる営業マンなんぞ、捲簾しかおらんぞ。捲簾はうちの社員だ。藤林に捲簾はおらん」
 社長は卑怯だ。僕が捲簾に執着していることをよく知ってる。だけど、だからと言ってどうもしない。
 もうここにはいられないのだ。
「…そうか、お前さん頑固だもんな。説得できるとは思ってない。藤林素子か…一度話をしよう、3人で」
「社長には御世話になったと心から思ってます。感謝もしています」
 社長は泣き笑いの表情を浮かべて、握手を求めてきた。握り返した手のぬくもりに、この事務所で過ごした時間が濃縮されているように思えて、少しだけ熱いものが込み上げてきた。

 決意をしてからの僕の行動は恐ろしく早かった。辞めるという意思を事務所一のおしゃべり田中さんに伝え、泣きついて引き止めてくる部下を軽くあしらい、この事務所の最後の仕事であるコンペに向けて死力を尽くした。
 八戒は、何も言わなかった。それが、答えなのだと思った。僕がこの事務所からいなくなれば、八戒も仕事をしやすくなるだろ。僕の模倣などせずとも、いい仕事ができるようになるだろう。
 もう、未練はない。

 最後のコンペが終わった後、片付けをしに事務所に戻ったら、デスクにメモが置いてあった。送別会をしてやるから今すぐQUARTETに来い、というものだった。
 …捲簾の字。几帳面なあの男らしい、力強くて綺麗な字。
「送別会なんて」
 していらない。そういうのが一番苦手だ。僕は行かないことにして、デスクの片付けを始めた。元々整理や整頓が嫌いな僕なので、必要だろうと認識したものだけダンボールに詰め、あとは事務所に残したまま去った。

「薄情者」
 事務所を出た数秒後、背中にそんな声が降ってきた。低音の、すこし掠れたハスキーな声。
「はい、3歩下がって、回れ右」
 指示通りにすると、捲簾の笑顔が目に飛び込んできた。
「QUARTETって書いたつもりだけど」
「僕がそういうの苦手だって、貴方が一番ご存知かと」
「だから、涙ながらに最後に天蓬主任とお話がしたいんです!っちゅー部下を退けてやったんじゃん」
「はあ?」
「送別会、俺とお前だけの」
 …この男特有の無神経さが、時折救いになることだってある。今は、まさにそれだ。
「ほら、お前のセーカク考えるとさ、絶対二度と会うことねえと思ってんだろーし。だったら最後なら最後で、なじみの店で呑み明かすってのも一興かと思ってさ。でもお前、来ねえだろーと思って。んで、外で待ち伏せぶっこいてました」
 息が詰る。心臓の音が、うるさい。
「…何時間?」
 コンペが時間延長し、その後藤林素子と食事をしていたので、今は11時を回っている。
「3時間59分。あと1分遅かったら帰ろーと思ってた」
「…どうして」
「最後なんだろ」
 決めたのは貴方だ。
「…てか、腹と背中くっつきそ。とにかく飯だけはぜってぇ付き合え」
 そう言って捲簾は、僕の頬を軽く叩いた。伝わった手の冷たさが、少なくとも3時間59分間は僕のことを、僕とのことを思い出したり考えたりしていたことを気づかせてくれた。

 捲簾と、色んな話をした。友達みたいに、ライバルみたいに、討論もした。
 この男の考えていることが好きだ。いつもいつも発見と驚きと感心に満ちている。
 この男の声が好きだ。低音で滑舌がいいわけでもないのによく通る。
 この男の指が好きだ。話しながら無意識に動いたり、器用にものを扱う仕草は見ていて飽きない。
 しゃんと背筋の伸びた広い背中も、鋭利で強くて優しい瞳も、何もかもが好きだった。

 結局、一度も言えなかったな。