Yuzu
 捲簾が天蓬をふった。

 でもおまえと付き合う気もねえし。

 その場では、俺は驚いた顔をした、と思う。実際に驚いたので。ところが内心は驚いたどころの騒ぎではなかった。多分、俺には自信があったんだ。
 ねえし?ねえのに好きって言ってキスしたのか。へー…。ふーん。そうか。だよな。好きでもない天蓬を抱き締めるほどだもんな。いや好きだったのかも。弟なんかより天蓬のほうがよかったのかも。ほんとはふってなんかいないのかも。
 俺の思考は渦をまいて下へ下へ吸い込まれていき、引力が倍になったようだった。QUARTETを出て駅までの道を、ゆっくりゆっくり、これ以上できないくらいゆっくり歩いた。
 八戒が追いかけてこないかと思ったが、そんな都合のいい事が起こるわけない。
「でもさ」
 思わず声が出た。すれ違ったおねーちゃんをぎょっとさせてしまった。
 でもさ。でも。俺。
 
 あーあ…。八戒だ。すぐ後ろ。
 声をかけて来ないあたりが八戒らしい。影だけ、街灯の明かりで俺に並ぶ。どこからか俺が帰っていくのを見たんだろう。こんなにあからさまに全身で「落ち込んでます」というパフォーマンスしてたら馬鹿でも気づくだろう。
 でも早く歩けないんだよ、なんか。足がもつれて。
「でもさあ」
 俺は振り返らないまま呟いた。
「でもさ、俺だって辛くなることあんだぜ、たまには」
 八戒の返事はない。少しだけ、吐く息が近くなった。
 また俺は泣くのか。泣いて八戒にあんな慰め方されるのか。絶対嫌だ。
「…俺だって付き合ってもいいなんて簡単に言った訳じゃねえのに。必死だったのに。この三日間で捲簾に惚れる努力した。あいつと恋人同士になるとこ想像してちゃんと楽しかった。もう兄貴じゃねえよ。そもそもあいつが俺が好きって言ったんじゃん。あいつが言ったのに何で俺がふられんの。付き合う気ないなら何で好きとか言うの。好きとかってそんな簡単に言うもんなの」
「さあ」
 八戒の返事があまりにいつも通りだったので、俺はびっくりして振り返った。
「何ででしょうね」
 聞いてんだから考えろよ。
 野球は何で反時計回りに回るのかとでも父親に聞いた息子か俺は。
「何ででしょうねじゃねえよ。おまえもおまえだ。俺はおまえが天蓬が好きだっつーから諦めて、捲簾が俺を好きだっつーから付き合う気になったのに、ふたりして何なんだその態度。人の純情もてあそびやがって、俺には何しても何言っても平気だとでも思ってんのか?」
 八戒は上着のポケットに手を突っこんだままで、どこか遠くを見ている。
「そうですね。貴方には何言っても平気だと思ってるのかもしれませんね、僕も捲簾主任も」
 急に突風が吹いて、八戒は軽く眼鏡を押さえ、ようやくこちらを向いた。緑の沼に張った氷みたいに冷めきった目。
「貴方のせいでしょう、平気な顔するから。捲簾主任の前で怒ればよかったんです。僕の前で天蓬なんかやめろって騒げばよかったんです。かっこつけた貴方が悪い。貴方の前から誰もいなくなったって自業自得です。誰にも愛されずに、ずーっとひとりであぶれてりゃいいんです。僕は家で図面ひきたくてうずうずしてるんで帰りますけど、道端で捨てられましたって顔で鳴いてたら物好きな誰かが拾ってくれますよきっと」
 八戒は言うだけ言うと、俺の脇をすり抜けて、さっさと駅に向かって歩き出した。右腕にはコンペの資料を抱え、左手で携帯のストラップを弄びながら、振り向きもせずに。
 俺は八戒のことも捲簾のことも好きだった。ふたりともの願いを叶えたかった。
 いやどうだったのかな。分かんねーやもう。
 ひでーよな。ほんと。
 俺、歩けないんだって。マジで。なんか足震えて。
 歩けない。
 歩けな…

「八戒!!」

 もうかなり遅い時刻とはいえ、歩道にはまばらに疲れた会社員が散っていた。喉からというより腹から直接突き上げた俺の声に、駅から漏れる煌々と輝く明かりと逆光になった八戒が振り返った。
 そこまで、いけない。でも声も出ない。
 俺は重傷を負ったリハビリ患者のように右足と左足を必死で交互に前へ出して、一歩一歩八戒に近づいた。
 平気な顔するのはおまえも一緒だ。ひとりであぶれてるのはおまえも一緒。
 おまえが天蓬のいないデスクにものの数分も座ってられないこと知ってる。ほんとは仕事なんかどうでもいいことも知ってる。天蓬に誉められるために。天蓬に認められるために。ただそれだけで突っ走ってたのも知ってる。天蓬がいなくなったら自分がどうなるか考えるのも怖いくせに「おめでとうございます」なんつって見送る気だ。最後のお別れの場は捲簾に譲って「あの人には貴方のほうが」なんて笑う気だ。内心捲簾より自分のほうが数段いい男だと思ってる癖に。そんでもって家に帰ったら捲簾のわら人形に釘でも刺す気だ。わかってんだよ俺は。おまえの汚い性格なんか全部分かっちゃってんだよ。
 ようやく八戒のところに辿り着いた俺が顔をあげると、八戒はまったくの無表情で俺を見ていた。
「貴方待ってたら夜が明けちゃいますよ」
「おまえが大好きだ」
 八戒が微かに笑った。
「だから?大好きだからおまえの幸せを願う、ですか。じゃあさくっと捲簾主任ぶっ殺してきてください」
「願わない。俺といて」
 幸せになれ、だってよ。反吐が出る。
 俺はそのまま前のめりになって、八戒の右肩に額を押しつけた。
「嫌ですよ。貴方、一瞬でも捲簾主任に浮気したでしょう。僕と比べて捲簾でもいいやーって思ったんでしょう。彼の次なんて冗談じゃないです。それに貴方嘘つきだし浮気者だし」
「嘘なんか。つくけど一生つき通す」
 俺を突き放しもしなかったが抱き返しもしない。端から見れば酔っぱらいを支えてる同僚かなんかに…見えてくれ。

 いつもいつもいつも八戒がいて、俺は八戒の横顔を眺めてた。
 天蓬から目を離さない、その横顔を眺めてた。
 俺は、またひとつ嘘をついた。
 おまえの横顔が大嫌いだと。
 ほんとの事を言ったっておまえは信じない。
 ほんとはおまえだったらどんなおまえでも欲しい。何番目でもいい。どんな欠片でもいい。誰のものでもいい。誰を好きでも構わない。他の奴のこと考えてて構わない。綺麗じゃなくていいし純粋じゃなくていいし全部じゃなくていい。手にはいるぶんだけでいいから俺にくれ。

 俺のエゴは捲簾より浅ましい。