Yuzu
天蓬の行動は怖ろしく早かった。
最後の2日はほぼ徹夜して、完璧とは今日のこの日のためにあった言葉であると拡声器で叫びたいほど完璧な図面と企画書を提出した時には、天蓬の引き抜きは社内中で誰も知らぬ者はいないという有様だった。「ここにいる限り僕の片腕」とかなんとか言った言葉を天蓬がいつ撤回してくるのかと待っていたが、どうやら自分から言い訳する気はないようだ。まあ、天蓬らしいといえばらしい。
「俺、手伝わない」
悟浄はまたごねた。
「おまえが天蓬の片腕になれるっつーから、あーだったら仕事を通じてふたりの心の距離が縮まるお手伝いができるかなあと思ったのよ俺は。そしたらふっきれると思ったのに捲簾にはふられるわ天蓬いなくなるわじゃコンペで優勝したって天蓬が授賞式で拍手喝采浴びるだけじゃん。おまえはそれでいいのか果たして」
「…別にいいですよ。最後くらい花持たせてあげれば箔がつくってもんでしょう」
正直言って、悟浄がいないと物理的に足りないのだ、腕が二本じゃ。
付き合ってくれたら手伝ってもいいと言われたら多分僕は頷いたが、僕の数千倍はまっすぐな悟浄はもちろんそんな卑怯な事は言わなかった。代わりに一席ぶちあげた。
「退社する奴にコンペでプレゼンさせるなんざ事務所の恥だぜ。このような優秀な人材をうちの社はみすみす手放す大馬鹿ですって公言するようなもんじゃん。後継者もいないのかと思われるぜ。天蓬出品のコンペもまとめておまえがやるべきだ。個人参加じゃねえんだから。社を代表していくんだから。退社した奴に冷たくするのは社のブランド守る戦略だろ?優勝したのに向こうさんが天蓬指名してきたらどーすんのよ。働き損か俺ら」
まあ確かにそのとおりだ。
そのとおりですねと頷かなかったのは、単に悟浄が後半の台詞を社の廊下で大声で喋ったからだ。天蓬にも捲簾にも明らかに聞こえた。振り返ると、捲簾が遠くの方で肩を竦めるのが見えた。
「…決めるのは社長ですからね」
「うん、社長にも言ってきた。あんたは頭が空っぽだって」
忘れていたが悟浄は異様にオヤジ受けがよかった。
「…で?」
「おまえを次期社長にしてやるからそれまで我慢しろって」
部下も部下なら社長も社長だ。
結局最後の徹夜が2日で済んだのは悟浄がぶーぶー言いながらも見捨てず付き合ってくれたからで、僕は遠慮無く好意に甘えた。立ってるものは親でも使う主義だ。
天蓬はひとこと「お疲れさま」とだけ言った。
ここまでコケにされるといっそ爽快だ。
「天蓬主任。貸しひとつです」
「…何のことです」
「僕を片腕にすると仰いました。いつかきっちり返していただきます」
「ここにいる限りとも言いましたよ」
「酷いですね」
仕方ないので苦笑混じりに返したが、本当に酷い。
天蓬は知らないのか。相手に受けた好意より傷のほうが深く残る。
そうしてこの人は最後まで僕を静かに無視し続ける。
退社の最後の日まで。捲簾に心を向けながら。
悟浄が捲簾に「ふられた」(と本人は思っている)夜、僕ははっきり返事はしなかった。普通じゃない精神状態でこんな大事なことは決められないし、何よりコンペに集中する必要があったので、それが分かっているであろう悟浄も言うだけ言ってぎくしゃく帰っていった。
だが、思った以上に捲簾が悟浄に与えたショックは大きかったらしく、それは捲簾も同じ事だとは思うが、翌日半休をとったと思ったらいきなり引っ越すと言い出した。それが僕のうちのすぐ近所なら実力行使かと身構えもするが、そうでもないところがまた中途半端だ。
「急ですね」
「捲簾と会うのがやなのー」
会うのが嫌と言ったって会社にいれば会わざるを得ないが、社内ではむしろこれまでより捲簾と親密に接している。器用なもんだ。だがアフターファイブに飲みにもいかず、捲簾の部屋にも一切あがらなくなった。何もそこまでという感じだが、悟浄にとって兄だと慕っていた男に告白され、アイデンティティを喪失し、付き合う気になって断られ、またアイデンティティを喪失したわけだ。カタチから入って自己暗示にかかるタイプ。
無駄だと思うけども。
今日もブースでわぁわぁやってる二人の脇を通りながら、何とはなしに溜息がでた。
捲簾と悟浄はいくら距離が離れても心が離れない。際限なくのびる、しかし絶対に切れない紐で繋がったように、お互い忘れられない。いざという時にはお互いに頼るだろう。人生の転機がきたらお互い真っ先に報告するだろう。そんな男を、僕はどうすればいいのだろう。
強いのか弱いのか。
人がいいのか悪いのか。
確信犯なのか天然なのか。
分からなければ分からないほど、誤魔化されてぼかされるほど、遠ければ遠いほど、自分のものにしたくなる。悟浄に一旦イエスと返事をしたら最後、僕は悟浄を好きになる。そして負ける。天蓬には負けたとは思わない。が悟浄には、もっと理屈じゃないところで負ける。
負ける気分。
どんなだろう。
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