Yuzu
天蓬の最後の日。
多分捲簾と一緒に最後の祝杯をあげているであろうその日。
「勝ちましたよ」
淡々とした天蓬からの電話は僕が受けた。
「おめでとうございます」と言うと神妙に「おめでとうございます」と返ってきた。
天蓬が戻ってくる前に社を出て家に帰り、ひとりで食事して、洗濯機を回し、ベッドで本を読んでる途中でことんと寝てしまった。いつもどおりだ。
結局、最後は両想いが勝つんですよねぇ。
純粋に切なかった。捲簾の、天蓬を待ってる権利があると言わんばかりのあの自信は、何だか悔しいとか腹立たしい通り越して、荘厳なる事実というきっぱりした力があった。天蓬をふったことを後悔してる、あの言葉、悟浄が聞いたらその場で言っただろう。
「じゃあ今度は告ればいいじゃん」
悟浄の言葉はいつも簡単で、大概、正しい。
翌日は会社も休みで、突き抜けるようないい天気で、その脅しのような晴天の下、僕はベランダに布団を引きずり出した。
今日はどうしようか。昨日から延々悟浄と話さないとという気分はあった。そもそもコンペで優勝したのは10分の1は悟浄のおかげなわけで、ただ、次にふたりで会うなら、何か決定的な答えを用意しておかないといけないような。
僕は着替えて外へ出た。何となく、賭けだった。子供の頃に家出したような、学校をさぼって町に出るような気分。悟浄の新居を、僕はまだ知らない。駅から電話して、いたら会えばいいし、いなかったら帰ってこよう。事前に電話をかけて「行くから待ってろ」というのは尊大な気がした。…女と縺れ合って寝てたりして。凄くあり得る。
僕は下りの電車に乗り、ふと、それを見た。
不意打ちだ。
捲簾と天蓬。
声をあげかけて何とか留まった。
多分徹夜で呑むか…何かしてたんだろう。子供のように凭れ合って、ぐっすり眠りこけていた。僕はじりじり後ずさったが、ふたりは目を覚ます気配なんか全然なく、そのことで胸が疼いた。
次の駅で僕は降り、発車する電車を見送った。
見たくなくても消えるまで、必死で見送った。
初めて、この恋が動き出して初めて、泣きそうになった。
…好きですよ。
好きでした。
自分勝手でも一人相撲でも貴方の頭の中にひと欠片も僕がなくても、生まれて初めての好きだったんです。貴方が凭れてるどこかの誰かみたいに好きだか何だか分からないようなあやふやな好きじゃない。
今は譲るだけですからね。
あの光景はドラマの最終回のように完璧で、次があるようにはとても見えなかったけど。
次に来た下り電車にまた乗った。窓から見える環状も高速も早くも渋滞していて、空気も澄んで、世の中の人間がすべて幸せにイキイキし輪郭はすべてはっきりしていた。誰からも必要とされていないという事実は、この天気の下で抱えるにはあまりにも重い。
悟浄に会いたい。
今まで僕、泣いたことがなかったでしょう。泣くほどの事なんか何もなかったからです。今だって、もしかしたら泣いてるけど、失恋したからじゃないんです。恋なんかうまくいっても失敗しても自分のせいですから。あまりにも僕の入る余地もない光景が、そう、綺麗で。自分で自分が邪魔に思えて。今朝は何もかも綺麗すぎて。
だから悔しいだけです。
貴方と一緒です。
その駅に降りるのは初めてだった。いきなり小綺麗なバスターミナルがバンとあって、新築分譲マンションが山と建ちならぶピカピカの町だった。スーパーもビルのテナントもそのへんを歩いてるお子様の洋服もいわゆる「1ランク上」だ。
「…また、らしくないとこに引っ越して」
前はいい感じに寂れた商店街のある古い町だったのに。ほんと、形から入る男だ。
僕は改札脇の公衆電話で、悟浄の自宅の番号をゆっくり押した。
何を言おうか決めていなかったが、いきなり駅まで来てると言って「え、え、なんで、ちょっと待ってすぐ行く!」とか何とか慌てふためく声を想像しても、迷惑そうに「今ちょっとまずいんだけどー」と言い放つ声を想像しても、どっちでも今の僕には救いになりそうだ。何でもいいから僕に反応してくれ。
最悪。
「…そりゃないでしょ」
なんで休日の朝っぱらからいないんだ。出掛けているからいないのだ。留守番電話に、ちょっと考えて「またかけます」とだけ入れて切った。こんな日に目的もなく外出なんてしないだろうから、誰かと一緒だろう、多分。
どうしようか。
僕はぼんやり駐輪場の脇のフェンスに凭れた。足下に寄ってきた散歩中の犬を撫でてやったり、ファーストフード店に団体で入っていく中学生の一団を眺めたりしながら。用もないのに外でぼーっとするなんて、何ヶ月、いや何年ぶりだろう。15分はそうやっていただろうか。
突然、はっとするような色が目に飛び込んだ。
「…悟浄」
「…おはよ」
悟浄は余程驚いたのか、口を半開きにしたまま突っ立っていた。
生きてるなぁ。
生きてる。僕はちゃんとここにいて、いる理由がある。
「どこ行ってたんですか?」
「…寄り道」
意味不明なことを呟いて、悟浄はようやく僕のそばまでやってきた。
「何してんの?」
「…嘘みたいですけど貴方を待ってました」
ここにいればよかったのに。
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