haru
「どこ行きてぇ?」
 耳元で捲簾が吐息と共に掠れた声を吐き出した。
 ここでいい。どこにも行きたくない。心底思った。
 どこかへ行ったら、またひとつ思い出とやらが増えて、思い出して虚しくなるだけだ。
「眠りたいです」
 だけど僕は阿呆なので、生理的欲求が勝った。
 だって3日間、いや昨日あわせて4日間寝てない。忘れてた。
 …抱き締められて、安心したなんてことはあるようで絶対にない。
「…オケ。お前んちな」
 慣れているのだろう。
 捲簾の髪を撫でる手つきや、声の響きが。何というか、優しい。嘘みたいに。
 自分の家ではなく僕の家を選んだのも、僕が思い出して虚しくならないようにするためだろう。

 環状線を多分、5周はしたと思う。朝一番にQUARTETを出たのに、捲簾に起こされて目覚めたのは昼過ぎだった。電車の窓から射し込んだ光のせいか、捲簾の横顔がこれまで以上に遠く眩しく思えた。
 マンションまで歩く道中、訪ねた。
「どれくらい一人で起きてたんです」
「は?」
「目でわかりますよ」
 寝かせてくれてたんですね、ありがとうございます。
 そこまで言えないのが僕だ。
「三回りくらいしたとき、かな。ホントはもっと寝ててくれても良かったんだけど、時間もったいねぇだろ。だから起こした。俺のため」
「律儀にそこまで言わなくても」
「飯作ってやるよ、何食いてぇ?」
 はい、あっさりはぐらかされました。しかも爽やかに。
 …憎たらしい。絞め殺してやりたい。でも好きだ。どうしろというのだ。どうにもならない。
「カレーでいいです」
「はー?カレー?なんかこう、もっと、作り甲斐あるやつないの。同じルー系だったら、ビーフストロガノフとか、もっとこう…」
「カレーなんていつでも食べるでしょ。ビーフストロなんとかなんて、グルメじゃない僕は貴方が来ない限り一生食べないでしょう。ここまで言えば牛で亀な貴方もわかりますかね」
 捲簾は何とも言えない顔をしながらポリポリと首の裏を掻いて、空を仰いだ後、
「んじゃ、チャーハン。いつでも食えるだろ。カレーはやだ。お前でも作れそうだから。夜は品数勝負でいく」
 と、言った。僕はすかさず、
「夜も居るんですか」
 と、返してしまった。ああ、思ってたことが口にすぐ出た。珍しい。
「俺に与えられた時間は今日一日。お前の気ィ変わるまで、姑息に周到に頑張ります」
「ああ、また確信犯ですか。手料理で落とそうなんて、貴方何時代の人間ですか」
「今も昔も、誰だって手作りにヨワいのよ」
 この男の意味不明なまでなこの自信を、僕の手で壊すことができたら、多分吹っ切ることができるのだろう。
 ずっとずっと、鼻をあかしてやりたかった。屈服させたかった。
 馬鹿らしい。劣等感から始まった恋など、成就するはずもないというのに。

「…うわ、お前も引っ越すの」
 も?
「ああ、悟浄、引っ越したんだわ」
 ダンボールの山の中に、捲簾は煙草をくわえながら腰を降ろした。
「何でもないことみたいに言わなくていいですよ。死ぬほど淋しいくせに」
「カタチから入る男だから、あいつ。俺も助かったとこあるし。ブラコン卒業、ってな、ハハハ」
 まだ笑うか。別にいいけど。
「…調理道具は備え付けのものがありますから、どうぞご自由に使ってください」
 リビングに戻ろうとして、心臓が引っくり返りそうになった。
 いや、多分引っくり返った。そしてまた元に戻ってきた。何を言ってるんだ僕は。わからない。
 今、目の前の光景がわからない。

 …捲簾が、両手を顔に押し当てて肩を震わせていた。

 手で顔を覆っているため、顔を見たわけじゃないから、違うかもしれないけど。
 でも、でも、これはどう見ても、あれだ。
 泣いてる。

「…捲簾」
 名前を呼ぶところじゃない。呼ぶところじゃない。
 そして、今どうして泣くんだ。今、泣くような場面があったか。ない。僕は何も言ってない。悟浄のことを思い出して泣くのは、今だけは勘弁してもらいたい。何なんだ。僕を落としに来たんじゃないのか。まさか泣き落とし?さすがに、この恐ろしくプライドの高い男にそれは無理だろう。というか僕もどうにかなりそうだ。いや、僕がどうにかなりそうだ。
「捲簾」
 また名前を呼んでしまった。心とは裏腹に、膝の中に顔を埋めている捲簾の背中に手なんて当ててみてしまった。このままシャツを引っ掴んで、右ストレートでもお見舞いしてやったら、捲簾は泣き止むだろうか。落ち着け僕。
 落ち着け、落ち着け。捲簾だって人だ。人というのは、悲しいときに泣く生物だ。
 …シャツを掴もうとして、逆に掴まれて腕の中におさまったのはこの僕だ。
「…1分だけ…」
 捲簾の声は掠れていて、いつもよりずっとずっと掠れていて、迷子になった子供みたいでそれについてまた僕は動揺した。
「1分だけ、こうしてて。頼む。後で蹴っても殴ってもいい」
「1分なんか」
 足りません。

 どうせ僕も即物的で、気づいたら捲簾の頬を抑えて口づけてた。
 欲しいものは何でも手に入ると、そう思い込んでいるこの男が、ずっとずっと欲しかった。
 抱かれたら何かが変わるだろうかとか、そんなことまで考えた。

 ダンボールの山の中で、冷たい床の上で、喉から手が出るほど欲しかったもののひとつが、今だけ、この瞬間だけは手に入った。
 捲簾の体は、想像よりずっと冷たくて、捲簾じゃなくてブルガリオムの匂いがした。

 体を知っても、僕にはこの男のすべてなど手に入れることはできなかった。