haru
25過ぎてから、人前で泣いたのは初めてだ。いや、人前どころか泣いたことすら、こないだ悟浄にふられたのかふったのかよくわからんが、あのときが10年振りくらいだった。思えば淋しい人生歩んでるな俺。
なりゆきとは言え、俺より天蓬には相当な覚悟があったんだと思った。抱いてみて、心からそう感じた。まさか男をこんなに自然に抱きたいと思う日が来るとは。いや、そんなことより天蓬はもう二度と俺の前に現れないつもりだ。
12時きっかり。約束の今日が終わったその瞬間、俺は天蓬の家を出た。引越し先の住所も電話番号も、どうせ変わるはずの携帯番号も聞かなかった。聞けなかった。いや、どっちかな。もうどっちでもいい。…どっちでもよくねえよ。
またか。また逃げるのか。何度同じこと繰り返せば気が済むんだ。天蓬は最後だと、これが最後の最後だと覚悟を決めて俺に抱かれたんだぞ。それすらも無下にするのか。何様なんだ俺は。
俺は来た道を走って戻った。こういうとき、オートロック玄関って面倒臭ぇ。出なかったらどうするんだ。俺は携帯とインタホンを同時に鳴らした。さっきの今だから、頼むからどっちでもいいから出てくれ。
「…忘れものですか」
携帯から、天蓬の声がした。
「そう、言い忘れた」
「何です」
「お前のこと好きになった。かなり、猛烈な勢いで。お前的には最後だと思うけど、俺は最後はやだ。まだお前とやりてえこといっぱいあるし、話してえこともいっぱいあるし、行きてえとこもいっぱいある。新しい住所も電話番号も教えて欲しい。まだ決まってねえんだったら、俺は携帯も家も変わらねえし、どこにも行かねえから、決まったら連絡してほしい。これ全部俺の希望。お前が嫌ならいい」
天蓬は無言だったが、かすかに、本当にかすかに嗚咽らしき音が聞こえた。
あの天蓬という男を泣かしたのは、俺が最初で最後のような気がする。最後まで傲慢だな俺。
「好きだ、天蓬」
祈るような気持ち反面、諦め反面、それでもまだ祈りたい想いで、天蓬の声を待った。
「さようなら」
蚊の鳴くような声じゃなかった。
強くて、真っ直ぐな声だった。
どこまでも高潔な男だと思った。
本当の意味で、俺は生まれて初めて、失恋をした。
「当たって砕けてふられました」
QUARTETで、八戒とふたり。ものすごく奇妙な組み合わせだったが、こういうことは先に八戒に言っといたほうがいいと思ったので、八戒を飯に誘った。
「もしかして期待してたんですか、戻ってくるかもしれないって。だったら貴方、救いようのない馬鹿ですよ」
「冷静に考えりゃ、あの天蓬が『はい、じゃあ』とか言って連絡先教えてくれるわけねぇとは思ってたけどさ」
「僕は聞きましたけどね」
「…は!?」
あやうく俺は、呑んでいたビールを吹き出しそうになった。
「主任から連絡があって。ここに住んでます、連絡先はここです、何かあったらいつでもどうぞ、って。部下の特権ってやつですかね。まあ連絡なんてしませんけどね」
「…俺も聞かない」
「あれ、知りたかったんでしょう?教えてさしあげますよ。追いかけてみたらどうです。追いかけたことないから、やり方わかりませんか」
一々トゲがある言い方をする八戒だが、何も言い返せないところが悔しい。
「いい。聞かない。仕事で見返す」
「天蓬主任は貴方のつくるものに惚れてたわけじゃないと思いますけどね」
「うるせぇな、知ってるよんなこと。タイプ全然違うし。でもいーの、仕事で見返す。ものすげえ仕事して、やっぱり会いたいわ〜ってなカンジにさせてから会い行く」
「これまた自分に都合いいですね」
「いーの、自己中万歳だ。よし、決めた。同窓会しよーぜ、同窓会」
八戒が時計をチラチラ見ていることなんて知るか。どうせ悟浄と待ち合わせかなんかだろ。
悔しいからじらしてやる。俺はお前らの上司だ馬鹿野郎。
「天蓬の水族館、来年の秋完成だろ。そんときに同窓会。ここで、4人で」
「酔ってますね、主任」
「もう酒もやめる」
「大したことない男ですね、ふられたくらいで禁酒ですか」
「俺は引越したりしてねえもん。んで、同じ失敗はもー繰り返さねえ。よーし決めた!」
ビールを一気呑みして、八戒の目を真っ直ぐ見た。
「ほら、待ち合わせしてんだろ。行けよ、意地悪してやろーかと思ったけどやめた。お前顔天蓬に似てるし。一緒に居てムラムラきちまったらホラ、悟浄に殺される」
冗談言って笑ってる場合か俺。
「その前に僕が殺してさしあげますよ。それと、突如開き直るクセ、なおしたほうがいいですよ。人格疑われますから」
「もーとっくにお前らには疑われてっからいい。早く行けよオラ」
八戒は方眉を下げて微笑し、QUARTETを出て行った。
ここで一人で呑むのはもうやめにしよう。だから俺もすぐ、店を出た。
冬の風の冷たさがどっと押し寄せてきて、体を抱き締めた。
今でも、天蓬の感触を覚えてる。
俺は諦めてない。諦めが悪くなったのは、天蓬のせいだ。
いつかもう一度会えたら、あいつが俺のこととっくにどうでもよくなってたとしても、また振り向かせる。
もう逃げない。
今度は、俺が追いかける。
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