Yuzu
 綺麗だな。
 俺は横浜の巨大な歩道橋の上に頬杖ついて八戒を待っていた。捲簾に食事に呼び出されたってことは天蓬と何かしら決定的なことがあったんだろう。黙ってりゃいいものを律儀に恋敵に報告するなんざ、ほんと、お目出度い男。
 俺は宙に腕を伸ばした。指の隙間から指輪のようにキラキラ光が漏れてくる。
 ほんとに綺麗だ。空とか海とか花とか、綺麗なものは全部自然のものだと思ってたけど。そうか、夜景も作ろうと思って作ったもんじゃないから自然といや自然か。暗くて見えないからあちこち明かりつけてたら結果的にこうなったんだもんな。凄い。
「悟浄、遅くなりました」
 遅くなったと思ったら普通走ってこい。
 八戒は息もきらさず悠々と歩いて俺のそばまでやってきた。
「捲簾主任に行くな行くなと名残惜しそうに引き留められて」
「嘘つけ」
「ほんとほんと。天蓬と似てるからムラムラするって」
 八戒にそんな怖ろしい冗談を吐けるとはたいした奴だ。
「捲簾、何だって?天蓬とくっついた?また逃がした?」
 八戒は今気がついたように落ちかけたマフラーを巻き直し、そして微笑んだ。
「くっつきましたよ」
「そっか」
 俺は即座に返した。マフラーが泳ぐ一瞬の間。微かに揺れた声。
 …そっか。逃がしたか。
 馬鹿な男。俺なんか見なきゃよかったのに。捕まえて離さなきゃよかったのに。お互い、お互いに寄り道したばっかりに。
「…そっか。くっついたか。まあ良かったじゃん」
「全然良かないですよ。決定的に失恋です。まあこれで諦めもつきましたから安心してください。もうしょうがないですもんね、追っかけても。人のもんですしね。贅沢言ってられませんから貴方で我慢します。余りもん同士で仲良くしましょう」
 八戒は早口でまくし立てると「寒いから行きますか」と俺の先に立って歩き出した。
 どうやらそれが俺への告白らしかった。


 昼間、天蓬に会った。
 会いたくて会うような関係ではない。天蓬が案の定うちに忘れてった書きかけのROMを藤林デザインまで「持ってこい」という電話を携帯に寄越したので、俺は考え得る限りの悪態をつきながら営業途中に寄って届けたのだ。
「どの面下げて俺にパシらせてんだ!」
 今は主任だか室長だかなんだかしらないが、とにかく前より偉いはずの天蓬は、喚く俺をロビーのふかふかのソファーに座らせてラベルを確かめた。
「確かに。ご苦労様でした」
「ここは来客に茶も出さねーのか?」
 言い終わる前に、それはそれは香り高いコーヒーがすっと横から出てきた。
「うわ、綺麗なねーちゃん」
「思いつくのが貴方しかいなかったんだからしょうがないでしょう」
 相変わらず断固として自分のペースで話を進める奴だ。
「八戒に頼めばいいじゃん。ROMぶんぶん振って、天蓬主任のとこに忘れ物届けに行ってきまーす!って捲簾に報告すんのは目に見えてるけどな」
 天蓬はじろりと俺を睨み、俺はごめんなさいと謝った。
「どうせまた、あれがないこれがない騒ぐんだろ。どうせこのへん一帯俺の管轄だしいつでもどーぞ」
「おや。僕が気に入らないんじゃなかったんですか」
 俺は今の気持ちを説明しようと思ったが、うまくできそうになかったので黙ってコーヒーを啜った。なんとなく4人繋いでおきたい。…なんてな。それが俺でいいのかどうか大いなる疑問だが。
「…パシらされんのが好きなんじゃねえの。多分」
 忙しいだろうに、天蓬は俺と同じペースでコーヒーを飲み煙草を吸い、無言で俺の向かいに座っていた。広くとった窓の外の植え込み越しに人波が見え隠れする。変な感じ。凄く落ち着く。天蓬とは、前にもこうやって煙草を吸った。お互い相性がいい訳でも人間的に尊敬できる訳でもないのに、酷く落ち着く。
「…綺麗だなぁ、ここの緑。うちも植えりゃいいのに」
「何も聞かないんですね」
「あんたと捲簾のこと?別に興味ねーもん」
 俺を呼びつけてる時点で薄々分かるよ。もう会わないんだろ。んなことさせねえよ悪いけど。いつか、いつか必ず俺らは会う。4人で。
 さて、と俺は資料を抱えて立ち上がった。
「そんじゃご馳走様。いつかまた」
「悟浄」
 玄関先で、天蓬は俺を呼び止めた。
「もし、言いたければ言っていいですよ。僕に会ったって」
「自慢になんねーよ」

 俺と八戒が向かったのは海沿いの水族館だった。派手な喧噪に取り残されて忘れられ、来週取り壊される古くて小さな水族館。代わりに電車で一駅のところに、天蓬のてがけた水族館が建つ訳だ。今週は夜10時まで営業で入場料は半額だが、気の毒なほど閑散としていた。たいして珍しい魚がいるわけでもアトラクションがあるわけでもないし、横浜にデートに来るカップルなんかが立ち寄ったら一気にテンションが下がって返って距離を広げてしまいそうだ。
「悟浄が水族館が好きなんて意外ですね」
「綺麗なもん好きだから」
 ほんとは水族館に来ると海の底のようで息苦しい。猛スピードで泳ぎ回るたくましい回遊魚や、水の中でハンカチが揺れているような海月より、俺が好きなのは綺麗でもなんでもない深海魚だ。目も退化して生きてるんだか死んでるんだか分からないが、真っ暗な闇の中でじっと動かないこの世のものとは思われないような形のこいつらが、俺を、何というか、とても贅沢な生き物のように思わせる。こいつは闇で一生終えるために生まれて、それを忠実に実行しているのだから、俺は動いて話して人を好きになったり嫌いになったりするべき生き物なんだなあと、普段考えないような妙なことをしみじみ思う。
 人と来たのは初めてだ。
「天蓬主任が辞めた次の日、電車の中で主任ふたり見ちゃいました」
 水槽の向こう側でいそぎんちゃくを眺めている八戒の顔が水と光とガラスを介してチラチラ揺れて見える。俺と八戒は長い水槽を挟んでゆっくり出口に向かって歩いた。
「うっそ。俺も見た。寝こけてたとこ」
「じゃあ僕が降りた電車に貴方が乗ったんですかね。わざとじゃないでしょうねあの人達」
「顔に落書きでもしてやりゃよかった」
「ほんとですよ。…いそぎんちゃくってなんだか凄まじくエロくないですか」
「海月もナマコもイカも貝も水も魚も海のもんは何でもかんでもエロいじゃん」
「だから好きなんですか」
「そうそう」
「僕も好きです」
 水槽が途切れて、俺と八戒はばったり会った。
 ガラスを辿っていた指が宙に放り出され、捕まった。冷たくて痺れる。
 
 やばいなぁ。
 ここにいる連中、もしかして天蓬の水族館に引っ越すんじゃねえの。

 俺は妙なことを考えながら、息を止めた。自分の中の水音が八戒に聞こえやしないかとドキドキしながら、海の底でキスをした。