haru
 事務所に戻った俺は、とりあえず八戒と目を合わさずして、顔もつき合わさずして、声もかけ合わずして、どうにかして営業に出てしまおうと考えていたが、甘かった。お出迎えされていた。
「ひとりで、帰したんですか」
「ひとりで帰りてえって」
 咄嗟に嘘をついた。つく必要のない嘘だった。俺は一体、何やってるんだ。
「そうですか」
 八戒が、長い睫毛を震わせて視線を落とした。やはり無駄な嘘は無駄でしかなかった。嫌な罪悪感が俺を襲う。
「んじゃ」
 俺まで逃げてどうする。八戒は俺には興味がないらしく、追いかけてこなかった。ひとまずホッとしたが、こんなところでホッとする自分自身に嫌気がさした。とっととこんな自己嫌悪、風に晒して消してしまおう。

 そう思って駐車場へ向かったら、一体いつ来たのかわからないが、悟浄がバイクに体を預けて待っていた。いやはや、何て日だ。ザ・お出迎えデー。
「何よ」
「単刀直入に聞いていい?」
「はあ?」
「あんた天蓬のこと好きなの?」
 本当に、単刀直入だ。
 直入過ぎて、俺は考えるという行為をするのを忘れた。
「嫌いじゃねえけど」
 こんな返答をした俺自身を一刀両断したい。
「俺、自分で言うのも何だけど、凄まじくおせっかいなわけよ。だから、自分の欲望のまま、おせっかい焼いていい?」
「ダメ」
 悟浄を無視してバイクにまたがった。すると、ジャケットを掴まれた。
 頼むから逃がしてくれ。
「あのさ、」
「俺が好きなのはお前」
 必要以上に声がマジになってしまったが、冗談だよバーカ、で、済ましてもらえるうちに俺は逃げようとエンジンをかけた。
 あろうことに、悟浄が凍り付いてしまっていた。

 このままバイクのエンジンに、燃やされたい気分になった。

「…あー、ビビった今。一寸マジかと思った」
 すぐに悟浄は笑顔を見せた。そんなにホッとすんなよ馬鹿。
「何で八戒に送らせてやんなかったのよ」
 悟浄の頭は、もう切り替えられている。
 逃げたつもりが、追い越された。
「何で八戒に送らせてやりたかったのよ」
「あー言えばこー言う」
「俺ら関係ねーだろ、余計な気ィ回すな。ハゲんぞ」
 悟浄の紅い髪に触れた。そして、バイクを走らせて駐車場を出た。
 一通り営業に回ったら、会社に直帰するのには遅く、家に帰るには早い、微妙な時間帯になった。いつもなら悟浄を呼び出して一杯やるところだが、今日はさすがに話すことがない。いや、話したくない。
 と、いうわけで天蓬の家に見舞いに行くことにした。手土産がすぐに思いつかなかったので、飯でも作ってやろうとスーパーに立ち寄った。調子悪いときにでも食える冬のメニュー、といったら、やっぱり鍋だ。あっさりとした白身魚メインの。
 てなわけで、鍋の材料を買い込んで、天蓬のマンションへ向かった。

 実は、付き合いが長いくせに、俺は天蓬のマンションへ入ったことがない。玄関すらない。外観は何度かバイクで通りかかったことがあるので知っていたが、本当にでかい。建築家の住む美麗なマンション!とか言って、雑誌で紹介されたりしてもおかしくない感じだ。
 無論、訪ね先の人間と連絡をとらないと、マンションのロビーにすら入れないタイプだ。カメラとかついてんのだろうか、と、貧乏臭い想像をしながらインタホンを押した。
 天蓬は、相変わらずの不機嫌そうな声で、 「どうしたんです」  と、インタホン越しに言った。あんまり歓迎されてないらしい。
「見舞い。鍋食おーぜ、鍋」  どうやらカメラはついてるらしく、俺は天蓬にわかるようにスーパーの袋を掲げた。

 天蓬の部屋は、お世辞にも整頓されているとは言えなかった。床には、書類という書類やら設計図の筒が散らばっており、デスクやテーブルの上にはインクの出なくなったロットリングの山。灰皿は吸殻で山盛りになっており、灰皿のまわりは灰で白くなっている。
「…そりゃビョーキになってもおかしくねーっつーか」
「住めればいいんですよ」
「高級マンションが泣いてるぜ」
 だだっぴろいリビングのはずが、単なるゴミ溜めとなっている惨状。
 綺麗好きの俺のサガが、ここで疼いた。
「こんなとこで鍋なんて食ったら肺ガンになる」
「は?」

 2時間28分かけて、俺は天蓬の家を掃除した。天蓬は最初は驚いていたが、途中で乗り気になって、俺にあれはあっちだのそれはこっちだの指図し始めていた。
 妙に、楽しかった。
「…終わったー!」
「いやあ、見違えましたね」
 これで、建築家の住む美麗なマンション!とか言って、雑誌で紹介されても大丈夫な部屋になった。
「うわ、もー11時前じゃん。腹減った、食おうぜ鍋」
「その前に、」
 と、言って、天蓬は冷たいエビスビールを俺に差し出した。
 顔を見合わせて笑い合ったら、何故か少し照れた。
「サンキュ。」
「こちらこそ、ありがとうございます」

 生まれて初めて、天蓬に礼を言われたような気がした。
 くすぐったかった。

 適当に魚や野菜を切っていたら、天蓬が物珍しそうに俺を見ていた。
「何よ」
「いえ、貴方って本当に器用だなあ、と思いまして」
「建築家が手先不器用だったら終わり」
「そういう意味じゃなくて」
 熱があるのかわからないけれど、天蓬の瞳が少しだけ潤んでいるように思えて、すきっ腹にビールを入れたせいでたちまち4日酔いになっていたからかもしれないが、俺は妙な気分になっていた。
 よーく見れば、ものすげえ綺麗な顔してんなこいつ。
 よーく見たことなんてなかったから、全然知らなかった。

 ピンポーン。

 そのとき、インタホンが鳴り、モニタに映った八戒の姿が見えた。

 隠れてしまいたい。