Yuzu
俺は、結構弱い。
「はい悟浄。小坂夫妻のビックリハウスですよ〜」
八戒は、営業に出る捲簾を見送って戻ってきた俺の前に平面図を広げ、四隅を消しゴムやら筆立てで抑えて、ポンと掌で叩いた。
「さあ文句があるならどこからでもどうぞ。自分で言いますが完璧です」
「え、何。全部やってくれたの!?」
「だって貴方、どうせ今日はアルコール漬けで頭まわらないでしょう」
「うわぁサンキュー!八戒大好き!」
「はいはい僕もです」
昨日うっかり変なこと言っちまったもんだから、今日会ってこいつの態度が一変してたらどうしようかと思うと怖くて呑まずにいられなかった。よかった。
「ちょっと説明しといたほうがいいですね。会議室あいてますから行きましょう。コーヒーでも淹れてきます。貴方も飲むでしょ?」
そんなにゆっくりしてていいのかと危うく聞きそうになったが、そういえば天蓬がいないんだった。
週末は外周りが集中するので、社内は閑散としている。備え付けのコーヒーメーカーには使い捨てのプラスチックカップとホルダーがついているのだが、八戒はきちんとコーヒーカップに注いだコーヒーを手渡してくれた。
「何、私物?マイカップ会社に置いてんの?」
「プラスチックより美味しいですよ」
「同じだろ」
俺がコーヒーをラッパのみするのを、八戒は不良を前にどう更正させたらよいものか悩む教師のような目で見ていた。
「… 仮にも建築に携わる技術者兼デザイナーなんですから、もっと感性磨いたほうがいいですよ。風水も同じ。効果や結果より前に、それが人の気持ちを動かすってことが大事なんです。だから貴方の機能美追及!みたいな情緒ないやり方は、ファンはついても顧客層が限られちゃうんです。貴方、年輩の顧客いないでしょ」
「これからの日本を担うのは若者だろー?」
「そのとおりですが若者は貧乏です。金のない客なんか客じゃありません」
思わず笑った。まったくだ。
俺はこいつのこういうところが凄く好きだ。凄く凄く凄く好き。
八戒がくるっとシャツの袖をまくり、身を乗り出して図面をあちこち指しながら解説してくれている間、俺は何となく天蓬のことを考えた。年輩の顧客に信頼の厚い図面を引ける天蓬のことを。
…。あ。
俺。
…あいつのこと嫌いだわ。
よく、知らねぇけど。苦手なタイプの部下に惚れられて気の毒だなーと思ってたけど。
やっぱ、なんか、卑怯な気が…する。
「悟浄。聞いてます?」
聞いてるわけねーだろ。
「あのさ。これから俺が言うこと聞いて俺のこと嫌いにならないで欲しいんだけど」
八戒はまじまじ俺の顔を見て、いきなりとろけるように笑った。
「…貴方って、いいですね。普通思ってても言えませんよ、素直にそんなこと。大人が」
「馬鹿にしてる?」
「羨ましいんです。大丈夫、嫌いになりませんよ。何ですか?」
流石に躊躇った。でも、こいつには知ってて欲しかった。昨日捲簾に当たり散らしながら半分麻痺した頭で考えてた。俺は八戒が好きだけど、だから、こいつの願いが叶えばいいと思う。「人生そんなもんです」なんて寂しいことを当然のように思ってしまう、不幸臭漂うこの友人の願いが叶えばいいと思う。俺は人に惚れて惚れられて捨てて捨てられてを繰り返したから慣れてるけど、こいつはそういうタイプじゃない。ただ、八戒が困った時に助けてやりたいだけだ。他に助けてやれる奴がそばにいるなら俺は用無しだ。でも思い上がりじゃなく、今、俺以外いないような気がして。
「…昨日、俺、捲簾んち泊まって、このブルゾンわざわざ着てきたんだけど。意地が悪いと思った?」
「思いましたねぇ〜。天蓬主任、それで具合悪くなったんじゃないですか?」
「何で捲簾は止めなかったんだ?」
八戒は、ゆっくり前屈みになっていた姿勢を正した。
「天蓬が嫌な気分になることを、つまり俺がこれを着て出社するのを何で止めなかったんだ?あいつら仲いいんだろ?なんでだ?理由はひとつだ。捲簾は天蓬が自分に惚れていることを知らないか、もしくは知ってるけど知らないフリをしているか、知ってるし知らないフリもしてないけど天蓬に応える気がないか」
「もしくは知ってて応える気がなくて知らないフリをしているか。よっつです」
どうでもいいところで真顔で突っこむ八戒が、ああ大好きだ。
「俺は捲簾とは付き合い長いから贔屓目もあるけど、知ってたら止める男だと思う」
「じゃあやっぱり理由はひとつですね」
「そう。捲簾は知らない。天蓬は捲簾にきちんと告白してない」
「でしょうね」
「したがってあいつには、ブルゾンにも俺にもヤキモチやく権利はない。妬いて俺を睨む権利もない。だから俺は、あいつは卑怯だと思う。あんまり、好きじゃない」
いつものことだが、八戒の感情ははっきりと表に出ない。好きな男を貶されていい気分はしないだろうが、その気分がどの程度か、俺には分からない。
八戒がいつまでもコメントしないので、俺は続けた。
「… 誤解しないで欲しいんだけど、だから天蓬なんかよせって言ってるんじゃねえよ。それとこれとは別。俺が嫌なのは捲簾を挟んだ天蓬と俺のことであって、おまえと天蓬のことには関係ねえんだ。俺の、天蓬があんま好きじゃないっていう気持ちと、おまえが天蓬を好きな気持ちを比べたら、後者のほうが全然大事で重要で…」
「何故です」
電灯をつける奴もいないまま、部屋が翳ってきた。
「何故、貴方は自分の気持ちより僕の気持ちのほうが大事で重要なんです」
もしかして、ちゃんと言わないと、俺は天蓬と一緒になるのだろうか。
「…それはつまり」
「つまり?」
「…俺が、俺より、おまえのことが好きだから」
何分経ったか。
俺はブルゾンの袖のボタンを延々見詰め続けた。
「…悟浄。お願いがあります」
八戒の声は穏やかで優しかったが、とても顔を上げられなかった。
告るにしても、最悪だ。こんな切り出し方。天蓬の悪口の次にこんな。
卑怯なのはどっちだ。
「今日は絶対呑まないって約束してください。でないと良心の呵責に堪えかねて、僕は直ちに窓から飛び降ります」
…ここは1階だけどな。
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