haru
 この世にもし神とやらがいるのならば、僕は神とやらに完全に見離されてしまっているようだ。

 捲簾が、インタホンのモニタに映った瞬間、自分でもおかしくなってしまったのかと思った。
 それくらい、動揺した。
 日に日に大きくなっていくこの感情。『QUARTET』の赤い便器に流してしまいたいようなこの感情。自分では受け止められない。ひとりでは、抱えられない。脳みそと心臓がオーバーヒートしたみたいに、正常に機能してくれない。

 それでも僕は、プライドを死守した。平然とした顔で、捲簾を自分の部屋に迎え入れた。この男の前では、守りたいものも捨てたくないものも山ほどあった。
 それが全部どうでもよくなったときに、八戒の気持ちがわかるようになるのだろうか。

捲簾は、最初から腹が立つほど気の利く男だった。仕事もできる。部下からも上司からも信頼され、クライアントのアイドルだった。最初からそうだった。誰にでも同じ態度で接し、誰にでも同じだけの笑顔を見せ、誰にでも同じだけの気を回した。
 そんなあの男の器用さが、気に食わなくて気に食わなくて、いつどこでボロを出さないか四六時中目を皿にして見ていたら、気づいたらこの感情が生まれてた。

 友人、と呼べるような距離にはいると思う。ただ、その友人とやらのレベルでも、僕は悟浄に遠く及ばない。悟浄は捲簾がオネショしてた頃からの付き合いで、腹が立つことに性格や基本的な気質や仕事のやり方までもが、よく似ている。
 勝負する前から負けてる戦いなんて、放棄してしまうのが一番だと思った。
 だから。
 だからずっと、押し殺してきたのに。

 八戒の、目が気に入らない。あの、何でもわかるんですよ、という目が。
 あの目が存在しなかったら、僕は一生この感情を無視できた。

 捲簾は僕のそれはそれは絶望的に汚い部屋を、恐ろしいスピードとセンス(本当にここがポイントなんです)で、片付けていった。おまけに鍋の材料まで買い込んできて、器用に野菜を切り、器用に魚をさばいてみせた。
 本当に、本当に、何でもできるのかこの男は。
 吐きそうなくらいな悔しさが、体中にこみあげてきた。

 そのとき、インタホンが鳴った。ある意味、救われたと思った。
 思った僕が馬鹿だった。

 来訪者は、諸悪の根源、猪八戒だった。
 諸悪の根源。
八戒を悪役に仕立て上げて自己弁護するなんて、僕も大概最低最悪だ。

「俺、隠れてよーか」
「はあ?何でそんなことする必要が」
「いや、まー、そりゃそうだ、うん」
 捲簾が微妙に壊れた。
「体なら平気ですから、お構いなく」
 インタホンに向かってそう言ったら、捲簾が律儀に眉を寄せた。八戒に同情したらしい。
 本当に、誰にでもいい顔。誰にでも。
「捲簾主任、いらしてるでしょう?彼に仕事の話があるんです」
 あ、今、僕は物凄くかっこ悪かった。
 八戒のデスクを思い出した。そう言えば、僕の関係ないところで悟浄を挟んで仕事をしているんだっけ。
「わかりました、開けますから」
 玄関ロビーのロックを外した。
「…お前さ」
「何です」
 言いたいことなんて山ほど想像できるから、聞きたくない。
「もーちょっとこう、言い方とか対応の仕方とかあるでしょーが」
「性格です」
「違うね」
「違いません」

 貴方に、何がわかる。

「俺が八戒だったら、死ぬほど辛えよ」
 僕だって辛い。

「お邪魔します」
 この男がこの家を訪ねてくるのは、何度目か忘れてしまうほど多い。
 僕がこの男を家に入れたのは、これが初めてだった。
「よ、鍋食ってけ」
 あたかも自分の家のように捲簾はそう言って、八戒に笑顔を見せた。
 安売りしすぎだ。
「富雄不動産のことなんですが…」
 それから1分強、捲簾と八戒は仕事の話を始めた。その後、八戒は僕に断りも入れずにキッチンへ向かい、僕に断りも入れずに鍋の材料を吟味し始めた。捲簾も、八戒の後に続く。
「そうめんつゆ?」
 ダシにする、と言って捲簾が買ってきた瓶を手にとる八戒。
「あー、ダシ。うまいんだよ」
「昆布で先にとらないんですか」
「そうめんつゆオンリー。ぜってこっちのがうめえって」
「…捲簾主任って」
「あ?何でもできる、って?」
「やることなすことスマートだなあ、と思って」
「そうめんつゆが?わはは、アホか。天蓬にそれ言ってみ。気持ち悪ぃって言われっから」
 何だか、楽しそうだ。大体、捲簾がやることなすことスマートなことを、気持ち悪いなんて思っているわけがない。
 腹は、立つけれど。たとえようもなく。

 捲簾と八戒が夫婦のようにキッチンをいじったあと、鍋の用意ができたらしく、僕の待つテーブルまでやってきた。捲簾はダシの味を確認するためか、おたまを鍋の中に突っ込んで、フーフーしたあと、自分の口の中にダシを流し込んだ。
「どうです?」
「ん」
 八戒におたまを差し出す捲簾。本当に、夫婦みたいだ。
「あ、イケますね」
「だろ」

 得意げに笑った捲簾は、子供みたいに無邪気に見えた。

 また、吐き気がしてきた。