建設機械の歴史:
日本の土工機械史 前夜
→ [明治期] [大正〜戦中] [戦後編1]
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維新早々の明治3年、早くも建設機械が輸入されたのには驚かされる。 産業振興のため西洋鉱山技術や土木技術が、幕末期に既に入って来ていたが、建設機械導入も準備されていたのだろうか?
日本の文明開化は、明治期に一朝一夕になされたのではない、江戸時代からの藩校・私塾の教育土壌があり、その学問風土は、漢学的素養の上に蘭学を吸収し、近代技術受容の基礎となっていた。
新しいものを受容する旺盛な好奇心と探求心によって科学的思考と新技術を身に付けた先達が江戸期から綿々と続き準備され、幕末期、近代化は既に始まっていた。
特に、フェートン号事件、琉球外艦事件等を切っ掛として国防意識に目覚め、軍備近代化の為に基盤技術の研究、産業振興を佐賀・薩摩・宇和島の各藩や幕臣の一部が進めたこと。 これらの動きは、幕藩体制の変革期に各地で旧守派と鬩ぎ合い乍らも、科学技術振興の裾野を確実に拡げた。
やがて、時代は尊皇攘夷派と公武合体派との拮抗から、王政復古・倒幕へと急展開し、幕藩体制は崩壊する。 その後の殖産興業政策が産業基盤整備の為の土木の近代化を押進めることとなる。 しかし、幕末期の近代技術受容の裾の拡がりがなかったならば、維新時の急速な殖産興業政策や近代土木技術の導入は困難であったろう。
従って、日本の近代土木と建設機械の歴史を捉えるには、江戸時代後期の近代技術導入の黎明期から理解しておく必要がある。
そこで、江戸時代の前半の土木史を俯瞰した上で、西洋科学知識が入ってくる江戸時代後半から、動乱の幕末に潜入してみる。 草莽の志士達は刀だけで闘ったのではなかったのだ。
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- 江戸時代前期
- 文禄3年(1594) 初の利根川改修工事:松平下野守忠次が洪水防止と水田開発を兼ねて、利根川の支線「会の川」を羽生市上川俣で締切り本流を固定
- 1595年頃 神田上水を大久保藤五郎忠行が小石川の流れを利用して建設
- 1600 英国が東インド会社設立
- 慶長5年(1600.9) 関ヶ原の合戦
- 1602 蘭国が東インド会社設立
- 慶長8年(1603.2) 徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
- 慶長8年(1603.3) 日本橋修造
- 慶長9年(1604.12) 五街道に一里塚を置く
- 慶長11年(1606) 角倉了以が大堰川(保津渓谷)を開削し、高瀬舟を通す。
- 慶長12年(1607.10) 角倉了以が富士川航路を開く
- 慶長14年(1609.9) 西国大名の大船(500石積以上)没収
- 慶長15年(1610) 堀川運河開削:名古屋城築造の資材運搬用
- 慶長16年(1611) 角倉了以が京都〜伏見間の運河(高瀬川)を開削
- 元和2年(1616) 赤穂城下の上水道完成
- 元和7年(1621) 新川通りを関東郡代伊奈忠治が開削、利根川の流れの一部を栗橋の北で渡良瀬川に合流
- 元和9年〜寛永3年(1623〜26) 北上川河口付替工事:
- 寛永6年(1629) 鬼怒川と小貝川の分離工事
- 寛永6年(1629) 荒川を熊谷市久下で締切り、入間川支流の和田吉野川に付替
- 寛永10年(1633) 金沢の辰巳用水工事着工、板屋兵四郎が伏越し(逆サイフォン)を利用して建設
- 寛永12年(1635.5) 鎖国令
- 寛永12年(1635.9) 大船(500石積以上)建造禁止
- 寛永12〜18年(16735〜41) 利根川本流を庄内古川から江戸川に切替
- 正保元年(1644) 阿武隈川を渡辺友以が舟運のため開削
- 正保元年〜慶安4年(1644〜51) 備中松山藩が高梁川の松山〜新見間34kmを藩営事業として開削
- 慶安3年(1650) 兵学者北条安房守氏長が、初の西洋築城術を記載した「由利安牟攻城傳」を著す。
- 承応2〜3年(1653.2〜54.6) 玉川兄弟による玉川上水工事
- 承応3年(1654) 赤堀川通水
- 承応3年(1654) 利根川を常陸川に付替て、鹿島灘へ導く
- 明暦3年(1657) 徳川光圀が「大日本史」の編纂開始
- 寛文6年(1666) 山川掟を幕府が定めて治山を図る
- 寛文6〜10年(1666〜70.10) 箱根用水工事:大庭源之丞が甲州流水法技術者の友野与右衛門の協力を得て工事
- 寛文11年(1671.10) 河村瑞賢が東廻航路を開く
- 寛文12年(1672.3) 河村瑞賢が西廻航路を開く
- 貞享1年(1684.2) 河村瑞賢が淀川治水工事着工(安治川の開削)
- 1687 ニュートンが万有引力の法則発見
- 元禄4年(1691.5) 別子銅山開坑
- 元禄11年(1698) 赤堀川を川幅18mから49m(深さ9m)に拡幅
- 宝永元年(1704) 新大和川開削
- 享保元年(171) 徳川吉宗が将軍となり、享保の改革
- 寛延3年(1750) 青の洞門が完成
- 宝暦4年正月〜5年3月(1754〜'55) 薩摩藩が御手伝普請で木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)改修(宝暦治水)
- 江戸後期から幕末の近代技術導入期
- 1765年 ワット(英)の蒸気機関
- 明和8年(1771) 露西亜の軍艦が暴風雨で阿波藩領に漂着、異国船の近海出没の証左となる
- 安永3年(1774) 杉田玄白・前野良沢「解体新書」出版
- 1775〜83年 米国独立戦争
- 安永5年(1776) 平賀源内がエレキテルを試作
- 天明2年(1782.7) 印旛沼干拓に着手
- 天明3年(1783) 老中田沼意次が印旛沼干拓を再挙(3年後中止)
- 天明5年(1785) 林子平「三国通覧図説」刊
朝鮮・琉球・蝦夷の三国絵図、後年(1835)仏訳版が世界に流布
- 天明7年〜(1787〜93) 松平定信が老中筆頭となり、寛政の改革
- 天明7年〜寛政3年4月(1787〜1791) 林子平「海国兵談」刊 筆禍:12月身柄拘束、江戸護送、翌4年5月に本藩禁錮
発刊60年後の幕末安政期に残されていた手写本を元に復刊され、攘夷志士達の聖典となったという。
江戸中期迄、鎖国・太平の時代が続き海防意識に乏しかったが、寛政期(1789〜)に入ってから紀州・筑前・長門・石見等での異国船の出没や、林子平の「海国兵談」等により、漸く海防意識が芽生えた。 |
- 1789年 米国初代大統領にワシントンが就任
- 1789年 フランス革命
- 寛政2年(1790.5) 寛政異学の禁
- 寛政4年(1792.9) 露使節ラクスマン根室来航、通商を請う
幕府は「海防掛」を設置し、老中松平定信を任ずる
- 寛政11年(1799) 高田屋嘉兵衛が択捉航路を開設
- 寛政12年(1800.4) 伊能忠敬が全国の測量を開始
- 享和2年〜文政3年(1802〜20) 山片蟠桃が「夢の代」を著す
- 文化元年9月(1804) 露使節レザノフ長崎来航、通商を要求
- 文化3年(1806.9〜'07.4) 北方紛争
露西亜船が樺太松前藩会所等を襲撃
- 1807年 フルトン(米)の蒸気船
- 文化5年8月(1808) フェートン号事件
英国軍艦が和蘭船を装い長崎に偽装侵入し、狼藉を働く。 幕府は長崎の砲台を修築、佐賀藩が軍事近代化の必要性を痛感、近代工業技術導入の切っ掛けとなる。
- 文化6年(1809.7) 間宮林蔵が間宮海峡を発見
- 文化8年(1811) 工楽松右衛門が石鈴船、石救捲き上げ装置を考案、鞆港防波堤工事に利用
- 文化8年6月(1811) ゴローウニン捕縛事件(国後)
- 文化9年8月(1812) 高田屋嘉兵衛をロシアが抑留
- 1814年 スチーブンソンの蒸気機関車
- 文化12年(1815) 杉田玄白の「蘭学事始」なる
- 文政4年(1821) 伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」が完成
- 文政6年(1823) シーボルト来日
出島蘭館付医官として着任、医学の他、植物学・動物学・天文学・人種学にも通じ、東洋の総合的研究を志す若き独逸人学者。 洋学信奉の集合所となる鳴滝塾を主宰し、日本人の西洋科学的知識の習得に大いに寄与し、日本のあらゆる情報を学究的に収集した。 しかし、その表の顔の裏に諜者(スパイ)としての密命も帯びていて、帰国時にシーボルト事件を引起こす。
- 文政8年2月(1825) 「無二念打払令」(異国船打払令)
- 文政11年10月(1828) シーボルト事件
帰国の便船が難破し、積荷検査で大量の収集品の中から伊能忠敬の精密日本地図等の禁制品持出しが発覚
- 天保2年(1831) 親見正路が安治川を渫し、天保山を構築する。
- 天保4〜10年(1833〜39) 天保の飢饉
- 天保7年(1836) 水戸藩が友部・大沼に海防陣屋を設置し、湊村に初の台場を構築。
- 天保8年2月(1837) 大塩平八郎の乱
- 天保8年6月(1837) モリソン号事件:漂流民を乗せ、浦賀に来航した米国商船を攻撃
- 1838年 蒸気ショベルの発明 :W.S.Otis
- 天保9年(1838) 緒方洪庵が大阪に蘭学塾「適々斎塾」を開く
- 天保9年(1838) 蘭書「土木工学の教課の試み」 Proeve van eenen crrsus over de waterbouwkunde:
F.Baud を駿府学校が入手(土木工学書の初輸入)
- 天保10年5月(1839) 蛮社の獄
初の蘭学者弾圧:渡辺崋山は国元で蟄居、高野長英は永牢
- 1840〜1842年 アヘン戦争
- 天保12年(1841.5) 高島秋帆が西洋砲術を武蔵徳丸ヶ原(高島平)で公開実演
- 天保12年5月〜 水野忠邦の天保の改革
老中水野忠邦の政治改革
- 天保13年(1842) 異国船打払令を薪水給与令に変更
- 天保14年(1843.6) 印旛沼開削工事開始、翌年中止
- 弘化元年 オランダ国王ウィルヘルム2世が幕府に「開国勧告」、使節艦パレンバン号を鍋島直正が視察
- 弘化元年 琉球外艦事件
仏国軍艦が琉球に来航し、開国を要求、翌年に英国船、翌々年に仏艦隊と相次いで渡来。 薩摩藩では対応策を巡って、藩主島津斉興派と世子斉彬派が対立、お由羅騒動に発展。
- 弘化・嘉永年間に群馬県下仁田の中小坂鉄山で鉄鉱石の採掘が始まる。
- 嘉永元年(1848) 佐賀藩がフェートン事件以来の持論である以下の諸政策を老中阿部正弘に提言
- 反射炉による大砲鋳造
- 長崎港外の伊王島・神ノ島の台場構築
- 海軍創設と大艦建造
- 天草島の軍港化
- 嘉永元年(1848) 薩摩藩の島津斉彬が、蒸気機関の研究に着手
- 嘉永元年(1848) 1837年に蘭で出版されたフェルダム著「水蒸気盤精説」の翻訳を幕府天文方翻訳員の箕作阮甫に依頼。
- 嘉永2年(1849) 翻訳書「水蒸船説略」が完成、蒸気機関の研究に着手。
- 嘉永2年(1849) 江川太郎左衛門英龍が江戸自宅で反射炉の実験炉を試作。
- 嘉永2年(1849)〜5年(1852) 小田原台場の築城
品川台場に先行する初の洋式台場として、江川英竜の指導で、小田原藩士別府信次郎が小田原台場三基を築城、設計はエンゲルベルト著「陸用砲術全書」とカルテン著「舶砲新編」を参考か。
- 嘉永3年(1850) 佐賀鍋島藩の築地に藩主鍋島閑叟(直正)の命で、本邦初の実用反射炉を完成。 フェートン号事件で苦杯を舐めた佐賀藩は、密かに軍備近代化を図り、洋式大砲と軍艦の製造を企てる。 蘭書を翻訳し、西洋近代科学を研究して、反射炉、水車動力、起重機を備えた大型工場「大銃製造方」を建設する。 反射炉築造には江川英龍が支援する。
- 嘉永3年12月〜5年 長崎外目(港外)の神ノ島・伊王島砲台の槇海工事を佐賀藩が行う。 洋式台場(砲台)構築に大砲鋳造と同様に失敗を重ね苦労する。 人夫216,000人弱、石工185,000人弱、工費27,650両。
幕末期に海防上、全国の海岸に1,000箇所以上の台場(砲台)が構築されることになる。 洋式台場構築は、国防意識に目覚めた蘭学者達が西洋軍学書を翻訳し指導した。 洋式台場構築技術の習得は、近代土木技術導入の奔りであろう。 |
- 嘉永4年(1851) 島津斉彬が薩摩藩二十八代目藩主を襲封
- 嘉永4年 斉彬が江戸藩邸と国元で肥後七左衛門、梅田市蔵等に蒸気機関の雛形制作を命令
- 嘉永5年(1852) 鹿児島城内の精錬所で蒸気機関雛形が完成し、江戸と国元で実機製造を開始。
- 嘉永5年(1852) 鍋島藩が「精練方」を建設し、鋳造・冶金・薬品の研究を行う。 精練方掛には、京都の理化学研究の中村奇輔、丹後田辺藩(舞鶴)蘭書翻訳家の石黒寛次、久留米で「からくり儀右衛門」の異名をもつ時計師田中久重の3人を招聘。
- 嘉永6年6月(1853) ペリー浦賀来航
「泰平の眠りをさます上喜撰たった四杯で夜も寝られず」
泰平の世を揺るがし、徳川幕府崩壊の引金となる。 鎖国により2百年以上も停滞していた日本の在来技術の後進性が、黒船が示した先進技術によって白日の下に晒され、維新回転への大変革に繋がる。
- 嘉永6年7月 プチャーチンの露艦隊が長崎来航
露使応接掛は、大目付筒井政憲、勘定奉行川路聖謨
8月 佐賀藩士本島藤太夫、中村奇輔等が船内で蒸気機関車模型を見学し衝撃を受ける。 藩主鍋島直正に報告し、 精練方での蒸気船と蒸気車の雛型(模型)製作に取掛かる。
- 嘉永6年(1853.8〜'54.4) 品川第1,2,3台場築造
日本初の大規模海上構造物となる江戸防衛の砲台群(リニー式間隔建堡塁)を幕命により江川太郎左衛門(英龍)が急造。
- 嘉永6年9月 諸藩による大船建造の禁を解く
- 嘉永6年(1853) 伊豆韮山に江川英龍が反射炉を設置
- 安政元年1月(1854) ペリー再来港
- 安政元年(1854.1〜11) 品川第5,6,台場、御殿山下砲台を築造
- 安政元年1月(1854) 紀州藩は、海士郡代官仁井田源一郎の建議「海防議」により、加太辺に5ヶ所の台場を構築。
- 安政元年3月(1854) 日米和親条約調印
下田・函館の開港
- 安政元年 薩摩藩蘭学者 川本幸民が、黒船来航に驚愕し右往左往する西洋科学の無知に対する啓蒙書として「遠西奇器述」を緊急出版、1844年出版の蘭書”Eerste
Grondbeginselen der Natuurkunde"(理学原始)を翻訳したもので、蒸気機関、蒸気船、汽車、写真機、電信機等の原理、構造、利用技術を解明。 国防の参考書として諸藩が利用、ベストセラーとなる。
- 安政元年9月 大坂湾に露西亜のプチャーチン坐乗のディアナ号が入り、上方に衝撃が奔る。
→ 紀州藩では幕命以前に既に5箇所の台場を構築中であったが、これらの異国船到来に各地で台場(砲台)築造が急速に進み、関西でも86ヶ所の台場が建設される。
- 安政元年 水戸藩が反射炉を建設
技術者として南部藩士の大島高任(総左衛門)等を招聘し、那珂湊吾妻台で8月に起工、宮大工の飛田与七を大工棟梁として施工、瓦職人の福井仙吉が耐火煉瓦焼成に成功、翌年11月に1号炉が完成。 中小坂鉱山(群馬県甘楽郡)の鉄鉱石を利用するが、良質の「柔鉄」(鉄鉱石から精錬した銑鉄)を得るため、釜石に洋式高炉を建設し、その供給を受けて鋳造の改善ができた。 しかし、斉昭公の幕譴謹慎により操業停止、万延元年(1860)12月頃に再開するも元治元年(1864)の元治甲子の乱(天狗党の乱)の那珂湊戦争で10月に焼失崩壊。
- 安政元年11月 安政東海大地震
日露交渉で下田に来日中のプチャーチン坐乗のディアナ号が大破、修理のため戸田港へ回航中に沈没。 同地で代艦スクーナ船を建造。
- 1855年5月 パリ万国博覧会開催
- 安政2年7月 長崎に海軍伝習所を設置、操船・造船の他に鉱山機械等の取扱も伝習
- 安政2年 薩摩藩が、本邦初の蒸気機関実機と蒸気船を完成
- 7月 江戸藩邸で蒸気機関が完成
- 8月に本邦初の蒸気船「雲行丸」の試運転に成功
- 安政2年8月(1855) 鍋島藩「精練方」で蒸気機機関車模型の完成披露
- 安政2年10月 安政大地震、藤田東湖圧死
- 安政2年11月 吉田松陰が松下村塾を継承
- 安政2年 天文方蛮書和解御用掛を独立させ洋学所とする
- 安政3年4月 築地に講武所を設置
- 安政3年5月 浦賀奉行所与力の中島三郎助を建造主任に命じて、我が国初の大型洋艦(二本柱帆船)「鳳凰丸」を完成
- 安政3年7月(1856.8) 米初代駐日総領事ハリス下田に着任、通商を要求
- 安政3年 洋学所を蕃書調所と改称
- 安政4年8月(1857.10) 幕府直営の長崎鎔鉄所(後に製鉄所と改称)を起工、長崎海軍伝習総取締の永井玄蕃頭の専断で、初の蒸気機関輸入となる鎔鉄炉用蒸気機関や他の機械器具を発注、蘭海軍士官ハルデスの総指揮で、本邦初の洋式造修船工場が文久元年3月(1861)に完成(1期工事)。 工場規模:工業用地3,840坪に熔鉄場・鍛冶場・工作場の3工場、原動機25馬力、工作機械約20台。
- 安政5年6月(1858.7) 日米修好通商条約調印
- 安政5年(1858) 佐賀藩が三重津海軍所を設立、翌年に海軍寮・調練場・製鑵所などを増設
- 安政5〜6年(1858.9〜59.10) 安政の大獄
徳川斉昭(水戸)が永蟄居、四賢候の松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、伊達宗城(宇和島)は隠居。 橋本左内、吉田松陰の刑死
- 安政6年(1859) 廣瀬元恭がベクマン著「築城新法」を、伊藤慎がケルキウエィキ著「築城全書」を翻訳
- 安政6年5月(1859.6) 長崎・函館・横浜開港
- 安政6年(1859)6月〜万延元年(1860) 神奈川台場を松山藩が 猟師町に築城、設計は勝海舟、縄張は佐藤政養(与之介)、佐藤恒蔵が担当、工事費六万両。
- 安政6年〜明治2年(1860〜'69) 長崎外国人居留地造成工事
- 安政7年(1860.1) 遣米使節団派遣: ポーハタン号(目付小栗忠順)と咸臨丸(艦長勝海舟、福沢諭吉)が米へ出帆
- 万延元年3月(1860) 桜田門外の変 :水戸浪士が大老井伊直弼を暗殺
- 万延元年(1860) 大鳥圭介が吉母波石児著「築城典刑」を紹介
- 1860年 ラダーエキスカベータの実用化 :Alphonse Couvreux(仏)
- 1861〜1865年 亜米利加南北戦争
- 文久元年(1861.3) 長州藩の長井雅楽が「航海遠略策」を唱える
- 文久元年(1861.4) 対馬事件
- 文久元年5月 東善寺事件 :英国仮公使館(公使オールコック)を水戸浪士が襲撃
- 文久元年(1861.12) 第一回遣欧使節団派遣
- 文久2年(1862) 北海道楽鉛鉱山で、米国鉱山技師パンペリー、ブレーキによって岩破砕に発破を導入
- 文久2年1月(1862) 坂下門外の変 :老中安藤信正を水戸浪士が襲撃
- 文久2年(1862.2) 和宮婚儀
和宮降嫁による公武合体策を図るが、開鎖問題の対外政策不一致から機能不全
- 文久2年(1862) 島津久光が率兵上京
島津久光が精兵1000余を率いて鹿児島を出立(3月)、公武融和策を建議、幕政改革による幕藩体制の立直しを目指す。 しかし、この動きが幕藩体制瓦解、維新回天へ歴史の歯車を大きく動かす動因となる。
- 4月 寺田屋騒動
順聖公(斉彬)の遺志を継ぐ久光の上洛に合わせて、清河八郎等に煽動された尊攘派志士が上方にぞくぞく参集、佐幕派の九条関白、酒井所司代を襲撃し、久光を巻込み反幕挙兵を画策する。 首謀者は田中河内介、真木和泉等で、久坂玄瑞等が同調。 しかし、挙兵計画参加の薩摩藩精忠組激派
有馬新七等を久光が鎮撫粛清し、計画は頓挫。 逆に久光のこの不退転の意志が日和見な朝廷を動かし、勅使派遣を実現させる。
- 5月 勅使大原重徳が久光を従えて東下
外様大名が武力を背景に勅命を得て、幕政改革を幕府に迫る前代未聞の事件、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を大老に任命することを要求。
- 7月 慶喜を将軍後見職、慶永を政事総裁職に登用
- 8月 生麦事件
公武合体の大任を終えて、久光一行が江戸から京への帰途、武州生麦村で行列と接触した騎馬の英国人を無礼討する偶発事件が発生。 翌年の薩英戦争に発展する。
- 閏8月 京都の政情は、久光一行の入京前に一変、尊攘派が支配、長州・土佐藩が脚光を浴び、薩摩藩の発言力が低下、久光一行は帰藩。
- 文久2年閏8月 会津藩松平容保を京都守護職
- 文久2年 蕃書調所を洋書調所と改称
- 文久3年2月(1863) 幕府は摂海台場築立用掛に老中格小笠原長行を任命し、勝麟太郎(海舟)が台場築造を指揮した。
- 文久3年3月 将軍家茂上洛 :政治の舞台は江戸から京都に
- 文久3年5月 朔平門外の変 :姉小路公知暗殺事件
- 文久3年5月〜(1863〜64) 下関戦争 :長州藩が米仏蘭艦への砲撃開始(形式的には将軍の攘夷奉答を受けた形)
- 文久3年7月(1863.8) 薩英戦争
英国代理公使ニールが英艦隊7隻を率いて鹿児島に向かい、武力威嚇により生麦事件の賠償交渉に臨んだが、開戦に発展。 双方とも損害が大きく、お互いの実力を認め合い、藩論は一気に開国論となり、薩英間は親密となる。
- 文久3年8月 攘夷親征・大和行幸の詔勅、天誅組が大和で挙兵
- 文久3年8月 8.18 政変(七卿落ち) :公武合体派が尊王攘夷派を追放
- 文久3年 洋書調所を開成所と改称
- 元治元年3月〜慶応元年2月(1864〜65) 天狗党の乱
- 3月 筑波山で挙兵 :田丸稲之衛門、藤田小四郎等の水戸藩士等の尊王攘夷派(激派)
- 4月 日光東照宮への立籠りを図る
- 7月 幕府等の追討軍出兵
- 8月 水戸藩主徳川慶篤の名代松平頼徳を水戸に派遣
- 10月 那珂湊の激戦で反射炉焼失。 天狗勢(武田勢、潮来勢を合体、武田耕雲斎指揮)が京都を目指す
- 12月 加賀藩に降る
- 元治元年 薩英戦争で捕虜となった五代友厚が帰藩を許され、体系的な富国強兵策を上申、その中で産業鉱山機械の輸入を提言。
- 元治元年6月(1864) 新撰組が池田屋襲撃
- 元治元年7月(1864) 禁門の変(蛤御門の変) :長州藩京都出兵、久坂玄瑞・来島又兵衛・真木和泉ら戦死
- 元治元年7〜12月 第1次長州征伐
- 元治元年8月 英仏米蘭の四国艦隊が下関に報復来襲(下関戦争)
- 元治元年(1864) 小栗上野介(忠順)が群馬県下仁田の中小坂鉄山での溶鉱炉建設を建議
- 元治元年(1864.12) 高杉晋作挙兵
- 慶応元年2月(1865) 横浜製鉄所Atelier de Yokohama建設の着工、8月には竣工。 大規模な横須賀製鉄所に必要な設備や技士の養成を目的とした分工場を仏の技術指導で建設。
- 慶応元年9月(1865.11) 横須賀製鉄所Arsenal De Yokosukaの埋立造成(25万m2)の鍬入式(着工):首長 F.L.ヴェルニー、小栗上野介が建設を推進し、日本の工業技術の礎を築く、後に横須賀造船所を経て横須賀海軍工廠となる。
- 慶応元年(1865) 佐賀藩の蒸気船「凌風丸」が完成
- 1866年 ダイナマイトの発明 :ノーベル
- 慶応2年(1866.1) 薩長同盟の密約成立(坂本龍馬の斡旋)
- 慶応2年閏5月(1866.6〜8) 第2次長州征伐(四境戦争)
- 慶応2年(1866.12) 慶喜15代将軍就任
- 慶応2年(1866) 福沢諭吉が「西洋事情」を刊行。 先進文明社会を早わかり風に紹介した小冊子で、二十数万部のベストセラーとなる。
- 慶応3年10月(1867) 倒幕の密勅(薩摩・長州藩に)
- 慶応3年(1867.10) 大政奉還
土佐藩の大政奉還建白を慶喜が受ける。 幕藩体制の維持は困難であるが、大政返上で倒幕の名目を奪い、その後の諸藩会議で主導権を握り、実質的に支配的地位を維持できると読んだようだ。 倒幕の密勅は取消される。
- 慶応3年(1867.11) 坂本龍馬、中岡慎太郎が京都で見廻組に暗殺される
- 慶応3年12月(1867) 王政復古の大号令
- 慶応3年(1867) 日本初の浚渫船(泥浚船:手動式バケットドレッジャ)を横須賀製鉄所で製作、港内維持に長期使用 (出典「郷土に歴史的土木事業を訪ねる」、原典不明、他の文献で裏を取れず)
- 慶応3年(1867)〜明治4年(1871) 横須賀製鉄所の1号ドライドックドック建設工事。 このドライドックは、日本土木技術史で近代初の大型海洋構造物となる。
- 慶応4年1月(1868.1) 鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争始まる(慶応4年〜明治2年)
- 慶応4年4月(1868.5) 旧佐賀藩士松林源蔵が高島石炭採掘と販売の契約をグラバー商会と締結、その後洋式試錐機で45.5m深さの竪坑を掘削
- 慶応4年5月(1868.) 上野寛永寺の彰義隊を大村益次郎が討伐
- 慶応4年5月(1868.) 奥羽越列藩同盟成立、北越戦争
8月河井継之助陣没
- 慶応4年5月(1868.7) 淀川洪水、右岸各地で破堤
- 慶応4年7月(1868.9) 江戸を東京と改称
- 慶応4年8・9月(1868.) 会津戦争
- 慶応4年9月(1868.10) 改元して、明治元年となる
- 日本の土工機械史 :明治期
- 日本の土工機械史 :大正〜戦中
- 日本の土工機械史 :戦後編 1
- 欧米の建設機械史:発明と技術革新
- 超大型建設機械の歴史
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