椰子の木 実は見えますか?
分岐点へ 秘境西表島鹿川湾へ 西表島へ 石垣島へ 波照間島へ 那覇へ
2007年夏沖縄の旅へ  いろんな話へ
 東京から船で沖縄へ  

今日も穏やかな海だ。
のんびりと泳いだり、砂浜に大きな穴を掘って
その中へいろんな貝に入ったヤドカリを
いっぱい捕まえてヤドカリ牧場を作ったりして遊んだ。
麦といっぱい遊んであげないと。


そんな時間の合間に浜を行ったり来たり、
砂浜にそって泳いで幻の貝ジュセイラ(鹿川貝)探し。


ジュセイラは深いところに棲んでいる貝で、
死んで空になった貝が砂浜まで打ち上げられるのは
日本ではここ鹿川湾ぐらいのようだ。

もしかすると小学1年生が網取から鹿川湾へ入ったのは最年少記録かもしれないよ!

12時30分、潮もだいぶ引いたので水田さんに見送られながら野人ハウス出発。
今日の干潮のピークは15時頃がピークだ。
波打ち際は石が多く歩きづらいので水の中の砂地を歩く。
潮が引いていく。
 サバ崎越えの目印の浮玉に13時21分到着。

13時30分出発して、何度か迷いながら干潟側に出るが、
行きの浮玉の入口より干潟側から見て左手に出た。こちらの道の方が歩きやすい。
14時13分着。

干潟を渡り、僕と麦は小休止しながら進んでいく。
途中で船浮のほうから身軽なヒッピ−ぽい風体のお兄さんがやって来た。
声を掛けるとこれから鹿川湾へ帰るところだという。
帰る? どうやらあのギターなどが置いてあった方の岩窟に住んでいるようだ。
それでは!と別れたあとお兄さんはあっという間に遠くへ消えていった。

イダの浜近くの最後の岩場がきつい。
船浮に着いたら3人でカキ氷食べようね!とへとへとな麦を元気づける。
15時05分、ようやくイダの浜の船浮集落入口に着く。
さっそく船着場近くのカキ氷が食べれるお店に行くが店主は釣りに行ってやってなかった。
しかたなく自動販売機で飲み物を買う。
コカコーラを買ったつもりが出てきたのはバージンコーラだった。

こぎれいな観光客の中、泥だらけで汗臭い僕たちは異様だった。
もうまもなく船が出るという。
まったく勘違いしていて17時まで船は無くのんびり体制だったので
あわただしく、水田さんの本(1000円)を買って船に乗り込む。
ラッキー! この時間ならまだ船浦方面のバスがある。

潮がとても引いていていつもより船が通れる水路が狭い。
そんなところにカヌーがのんびりと進んでいるので
船は減速して波を立てないように静かに進む。
カヌーの人たちがいい笑顔で手を振ってきた。
船の乗船客も手を振った。
麦を見ると達成感、そして安堵の表情を浮かべていい顔をしていた。

15時45分、白浜着。
バスが待っている。
あっ、このまえの運転手さんだ。
僕らの顔を覚えてくれていてミトレアキャンプ場の入口で降ろしてくれるという。
55分に出発。

島唄が流れ、バスはゆっくりと走った。

追伸
どうせ僕なんかその他大勢の一人だし
90歳になる鹿川の仙人だった三浦さんに会っても話すことなんか無いかなと思っていたが、
やっぱり会いたくなってレンタカーで大富に入ると大富団地を探した。
団地が見つかると団地内に車を停めて住人の人を見つけて三浦さんの家を教えてもらった。
団地といっても2階建ての建物だ。 三浦さんの部屋は道に近い一番端っこだった。
週に何度か介護の人が来ていると水田さんに聞いていたので、僕はドアを叩くのをためらった。
建物の横に回って窓から部屋の中を覗いてみると
三浦さんらしき老人がベットに横たわって新聞を読んでいるのが見えた。
「すみません! 三浦さんですか? 鹿川でお会いしたものですが!」
と僕が大きめの声で言うと新聞を置きこちらを振り向いた。


「ドアが開いてるからあっちにまわってくれ!」
そして僕ら(じんちゃん、さくら、麦、僕)4人で部屋にあがった。
22年ぶりの再会である。
思ったよりもヨボヨボではなく、顔は青白いもののしわくちゃでなく若い。
ただし、歯はけっこう少なくなっているがしっかりとした口調だ。
耳は少し遠い。目はだいぶ悪くなっているようだ。
やっぱり僕のことは覚えてなかった。
というか僕も見た目がだいぶ変わってしまったので、、(ちょっと悲しい笑)
三浦さんは何者かわからない僕らに気持ちよく接してくれた。


鹿川湾へは沖縄返還1972年に入ったという。
そして、身体を悪くして86年頃に大富団地へ。
三浦さんは僕らに冷蔵庫を開けさせて中で冷えている缶コーヒーをご馳走してくれる。
鹿川でもミルクコーヒーをご馳走になりましたというと嬉しそうな顔をしてくれた。
引き出しからお菓子の箱に入った昔の写真を見せてくれた。
ほとんどが鹿川関係の写真で小屋の写真や訪れた人との写真だった。
その中から大事そうに見せてくれたのが恵勇じいとの写真だ。
恵勇じいの笑顔がたまらなくいい。

この何げない光景も二度と見られないんだなあ
鹿川湾で拾った貝
ジュセイラ(鹿川貝)
痛そう〜〜〜〜
大人になったとき、原風景のひとつになるだろうか
ジュセイラ(鹿川貝)

ジュセイラ
鹿川貝

ジュセイラ(鹿川貝)
椰子の実
右端ブルーシートが扉です。 開口部はかなり大きいです。

8時50分出発。
沢沿いに下るので、石がゴロゴロしていて歩きにくい。
途中でヤマネコのものと思われる新しい糞があった。
写真に撮ればよかった。

だいぶ下まで降ってくると左側を流れるウダラ川がしっかりとした川になっている。
先を見ると佐藤さんが待っている。 もっと先に行ってくれてもいいのにと思ったら道が水没していた。
どうしよう? 
荷物を置き、サンダルに履き替えて渡ってみた。
対岸まで10メートルぐらいか。なるべく浅そうな所を選んで歩いて腰くらいの深さだった。
麦を担いで渡り、もう一度戻って荷物を担いで渡った。
やれやれ。
靴を履きなおしちょっと歩くとまた水没していた。
よく見ると浮玉がある。
ここはウダラ川から鹿川湾へ山越えの入口だ。
9時44分着。

ここは川の中州になっているようだ。 
行きに見つけた赤いビニール紐の付いた道を佐藤さんが探りに行く。
この道が通れるようであれば、潮が満ちたウダラ川を渡らなくってすむ。

しばらくして佐藤さんが戻ってきた。
途中で道がなくなり、あたりは崖になっているという。荷物がなくても降りるのは難しいと言う。
さて、潮待ちする? 行ってみる? 面白そうだから行ってみようか!

鹿川湾の話の続き

どうやら石垣から家族、友達を乗せて遊びにきて、
大人たちが釣りをしているあいだ、子供達を1時間ほど
鹿川湾で泳がせるつもりらしい。

交渉は無事に成立して、
1時間ほどして戻ってきた船に
泳いで遊んでいた子供たちと一緒に
じんちゃん、さくらは船に乗り込んだ。

このあと彼らはパナリ島でのシュノーケリング、クルーズを楽しみ
船主の自宅へ招かれバーベキューやら接待されて最高だったらしい。
翌日の月曜日に病院で麻酔無しで爪を剥がされたようだ。

この船が来た以来、まったくもって船を見なかった。
本当にラッキーな出来事でした。

追伸

接待された時に、シャワーも浴びれないんで
指サックないかなあ〜と言ったところ、
同席していたスナックのネエネエが、
イボ付きサックならあるわよ!
とコンドームを2枚くれた。
そのイボイボコンドームをはめて
西表温泉のプールをプカプカしましたと。

麦が自分たちもいっしょに乗せてもらおうよと泣きを入れる。
よっぽど昨日の歩きがこたえたようだ。
そんな気持ちを諦めさせて、じんちゃんとさくらの乗った船を3人で見送った。 

大好きなサクラ姉ちゃんを乗せた船は行ってしまい、
絶望のどん底から少しづつ気持ちを切り替え始めた麦。

鹿川湾を見ながら、瓶ケースを机にして
絵日記をつけている。

鹿川湾には椰子の木が1本立っていて小ぶりの実をつけている。

僕は竹の棒に蛮刀を縛りつけて2つほど落とした。
まだ熟してないけど割って椰子の実ジュース飲んだ。
少し酸味があってほんのりと甘い。
最後に白いカリカリとした部分をカッターで削って食べた。
まさしくココナッツの味。

海に近い岩窟は開口部をブルーシートで覆われ右端に入口、
入ってすぐ右にかまどがあって、
奥には瓶ケースを並べて、ベットになっている。
たっちゃんの話によると、ここにはダニのような虫がいるらしく、
ここで寝るなら最初に焚き火して煙で燻ったほうが良いようだ。

もうひとつの洞窟
むかし来たときは竹で囲いがしてあった。
こちらも瓶ケースのベットがあり、
水中メガネやフィンやギターまで置いてあって
洗濯物まで干してあったりと生活感があるが今は誰もいない。

8月1日 今日も晴天

じんちゃんの爪の状態が悪くなり親指は腫れて膿みだした。
明日は歩いて帰れるだろうか?

日差しを避けるため岩窟の前の岩陰で朝食を摂りながら、
もう少し様子を見てダメそうなら船を呼ぼうか、ダイビングの船でも入ってきたら
それに乗せてもらって帰れたらいいね!なんて言ってたら海の方から船のエンジン音が聞える。
立ち上がって海の方を見ると漁船らしき船がまっすぐこっちに向かってくる。

分岐点へ 秘境西表島鹿川湾へ 石垣島へ 西表島へ 波照間島へ 那覇へ
2007年夏沖縄の旅へ  いろんな話へ
 東京から船で沖縄へ  

このチャンスは逃すわけにはいかない。
僕らは砂浜に駆け出した。
そして、じんちゃん自ら交渉する。

病院で爪を剥がされた、
何日かあとの写真。

綺麗な貝を拾い上げたらヤドカリ君が入っていて
どうしようかなあ〜と思って、しばらく考えた。
無理やり引き出しちゃおうか、それとも茹でちゃおうか。
試しにタバスコをかけたら、
ヤドカリ君は“ウムッ”と固まった。
そして、ちょっと間をおいて辛い辛いって感じで貝殻から脱出した。

ラッキーにも石が詰まっていて
ヤドカリ君は入れません。

2つの岩窟

1971年の落書き

月が上がってきた

ヤシガニをテレビでやる時の定番、
木の棒を強力なハサミで挟ませるのをやってみる。
千切れはしなかったが放さない。

そんなヤシガニを佐藤さんはいたく気に入り、ニヤッと笑ってずっと遊んでる。
「佐藤さん、可愛いヤシガニとテントで一緒に寝たら?」と僕が言ったら
さすがに、そうっすね!とは言わなかった。

辻駒夫妻にお礼を言って、僕と麦はテントに入った。
ちなみに佐藤さんは一人用の小さなテントです。
いつか眠ってしまうまで、外で物音がしていたから佐藤さんはしばらくのあいだ
ヤシガニ君と遊んでいたのだろう。

身軽な佐藤さんに、先に行ってもらい準備する。
まず泳げない麦にライフジャケットを着けて、
デジカメ、携帯やら濡れては困るものをビニール袋にしっかりと包み水の中に入っていく。

水が濁っていて足元が見えない。
最初は首ぐらいの深さまで水に浸かってマングローブの林の中に入る。

林の中は深くても腰ぐらいの辺りにマングローブの根がしっかりはっているので安心して歩ける。
目印の白いビニール紐を見つけて辿る。
やがてマングローブの林の切れ目の川岸に出た。
どうやら行きに渡った河口よりもだいぶ上流のようだ。
対岸まで20メートルぐらいだろうか、どこかを渡らなくては。

様子をうかがっていると対岸のマングローブ沿いを河口の方から佐藤さんが泳いできた。
僕が大きな声で呼ぶと佐藤さんは気がついた。
河口付近は海中に石があって危ないから渡るならこの辺りが良いと言う。

僕は荷物をマングローブの枝に乗せて置いて、麦を連れて川を渡り始める。
サポートのために佐藤さんが泳いで渡ってきてくれた。
川の中ほどは背の届かない深さだが流れは無いので難なく渡る。

麦を安全な対岸のマングローブの林の中に入れて僕は残してきた荷物を取りに再び川を渡った。
重い荷物を持って泳ぎきれるか? 沈まないかな?
背の届く所までは肩に担いで、いよいよって時に荷物を前に投げ出した。
すると思いのほか荷物は浮力があって浮き上がり、
ぎゃくに僕が荷物に助けられて楽に渡りきった。

やれやれと思ったのもつかの間、ここからなかなか砂浜へ出られなかった。
あとちょっとのところでアダンが帯状に生茂っていて棘だらけの枝、葉が邪魔している。

あちこち見て歩き、通り抜ける隙間を見つけ抜けだすが、
最初に歩いた僕が気がつかないで枝に作られた
アシナガバチの巣を刺激してしまい、危うく麦と佐藤さんが刺されるところだった。
10時45分、砂浜に出れた。
佐藤さんが膝とすねから血を流している。 
河口を泳いで渡る時に濁る水の中にあった石にぶつけたようだ。
膝の傷は幅は無いけどパックリ口が開いている。深い。
とりあえずマキロンで消毒する。

11時8分、野人ハウス到着。
潮が満ちていてこれ以上進めない。 ここで潮待ち。

ブルーシートで屋根を張って、その下にはハンモックが吊らされていた。
行きには感じなかった生活感が漂っている。
佐藤さんがちょこんと座っているのが見え、行きに招いてくれた初老の男性も座っていて
お帰り!と、にこやかに招いてくれた。

潮が引いて歩けるようになるまで、コーヒーや麦茶やクラッカーを
ご馳走になりながらいろんな話を聞く。

この初老の男性は明石市在住の水田さんという方で
今から13年前にここでずっと住んでいた恵勇じいと出会い感銘を受け、
それ以来、10年前に恵勇じいが死んでからも毎年ここへ来ているという。


野人と呼ばれているのは、1年半ほど前から小屋を建て畑を耕して生活しているOさんだ。
会えなかったがもう一人いる。
イダの浜に長く住んでいて追い出される感じでこっちに移り住んだ東京出身のIさんだ。
どちらも53歳くらい。

今回、水田さんがここへやってくると、いつも大きな木の下にブルーシートで
梱包して置いてあった荷物が撤去されていた。

それはOさんが景観が損なわれるという理由で、ある旅行者を手伝わせて行ったものだ。
Iさんにもいろいろと圧力をかけているらしい。
奥の畑の方で大声を上げているOさんの声が聞える。
しばらくすると、野人のOさんが現れた。
昨日から咳が出て困っていて、それは水田さんの喘息が移ったんだと言う。
きっとウイルス性のものだとしつこくからんでいた。

このOさん、ガテマラでマヤの研究してたり大学教授をしていたようだ。
人は見かけによらない。

神経がピリピリした感じの人で、敵もしくは邪魔者と判断した時は怖い人になる。
野人ハウスに立ち寄る時は、勝手に小屋や畑に立ち入らない方がいい。

水田さんに,、22年ほど前に鹿川湾で仙人の三浦さんに会ったことがあると話すと、
三浦さんならまだ元気に生きているよ!という。
えっ? もう死んでたと思ったのに、、、
あのときすでにおじいちゃんだったのに、、、、、、

西表島の大原に近い大富の団地にいるという。
年齢は90歳。 介護は受けているものの鹿川の話すると目が輝くよ。
戻ったら会ってみようかな。

腹一杯、スパゲティーを食べて、
そろそろ月が上がってくるね。な〜んて待っているんだけど
なかなか上がってこない。

ほんと今まで生きていて気がつかなかったんだけど
こんなに時間差があるんだあ。

今夜は蛍が飛んでいる。 めずらしい。
こっちの蛍っていつも地面近くの草むらやら下の方にいる。
佐藤さんの話によると西表島では蛍を1年中見れるそうだ。

月が上がってきた。
今夜もしばらく月光浴をしよう。

佐藤さん

8月2日 今日も快晴

朝、出発間際まで佐藤さんがあちこちそわそわ歩いている。
どうしたのか聞いてみると、
昨夜のヤシガニが挟んでいた木の棒がどこを探しても見つからないようだ。
心底怒ったヤシガニはどこまでも木の棒を持っていったのだろう。

鹿川湾を8時11分スタート。 
辻駒夫妻に見えなくなるところまで手を振った。

いきなり急な登りだ。 
少し先を行っては待っていてくれる佐藤さんに悪いので、
峠のピークで待っていてくれと言う。

8時41分、シークワサの木が立っているピークに到着。
小さな実がなっていてかじると苦酸っぱかった。

味のある佐藤さん
早くも疲れた、峠に立つ麦

イリオモテのターザン

恵勇爺と泡盛談

 作・画:水田耕平

現在の三浦さんと僕
大富にて

夕方、南風見田方面から男の人がひとりでやってきた。
はずれで野営を始めたようだが、こちらに近寄る事はなかった。

いっしょに鹿川へ来ている佐藤さん、
とても無口だけど時おりぼそぼそっと口をきく。

冗談には反応良く笑ってくれるし
なんか言えば「そうっすね!」と答えてくれる。

本当の正体はわからないが、いいやつです。
そんな佐藤さんは、暗くなる頃テントに戻ってきた。

テントに入って横になっていると
「こんばんは!」と辻駒夫妻がやって来た。
テントから顔を出すと辻駒さんが大きなヤシガニを持っていた。

麦に見せるためにわざわざ獲ってきてくれました。
この大きさでも中ぐらいだそうだ。
前にこの倍ぐらいのヤシガニを捕まえたことがあるそうだが、
それは放してあげたという。
そこまで大きくなるのには何年も何年もかかる。

ここ数年、商業ベースによる乱獲がたたり相当数が減ったようだ。
 

大きなハサミの次の足を兎の耳を掴むように持てば安全だそうだ。
月明かりと懐中電灯に照らされた姿はとてもグロテスクで、
根性無しの僕と麦は触ることは出来ても掴めなかった。
茹で上げると赤くなって見た目もよくて食べても美味しいのに、、、。

僕らはお腹がいっぱいだから、食べるなり逃がすなり好きなようにと辻駒さん。
たしか夫妻の夕食のおかずは遠い親戚筋のイセエビだったはず。
 
僕と麦もお腹はいっぱい。 佐藤さんどうする? 僕もいいっす。
良かったね、ヤシガニ君。
人間に囲まれているにもかかわらず、
ヤシガニの臆することのない姿はどこか神々しい。

シークワサの木がある峠にて

これも行きに撮った写真です。
上の写真の奥の方

行きに撮った写真です。
ちょうど上の写真の反対側から

水田さんにとって恵勇じいとの想い出の地、安息の地であるこの網取湾。
悲しいかなここへ来るのもそろそろ潮時かな。
僕が見てもそう思う。

3人で、何人でもいいから仲良く静かに暮らせばいいのに、、、
けど、絶対無理。

麦と水田さん

鹿川仙人と恵勇じい
この写真は三浦さんの一番の宝物だ。
三浦さんの心の中には恵勇じいとの思い出がいっぱい詰まっている。

22年前の三浦さんと僕
船浮にて

また会えて良かった

左から三浦さん、じんちゃん、さくら、むぎ
今はどうだか知らないけれど
前は鹿川も崎山も私有地だったのには驚いた。

やっぱり大潮だ。潮が満ちている時の増水がすごい!

水田さんが恵勇じいの話を書いた絵本です。
なかなか面白いです!