朝からテントの中の荷物を出して日干しにする。
昼過ぎまであずまやの下で手紙を書くが眠くなって昼寝をする。
午後3時頃まで眠っただろうか、
起きだして荷物の整理をして紙くずを燃やして焚き火をし、
その火で島の人にもらったトビウオの日乾し焼いて食べるがえらく塩辛い。

テントの中はアリだらけだ。正々堂々と正面入口から入ってくる。
おもに体長約4ミリのお尻が黒く他の部分は赤茶色をしたアリが何十匹といて、
他には体長約2ミリの全身こげ茶色をしたアリもいる。

最初は追い出したり、入口に殺虫剤を撒いたりして抵抗したが侵入は止まず、
近頃は諦めてアリさんに、
「噛みつくのだけはやめてください」
とお願いしている。
体の上を歩かれるのはもぞもぞして気持ち悪いので払いのけるが、
それ以外は自由にしてもらっている。

ゴミはテントに入れておくか、洗濯物を干すロープにぶら下げている。
というのは朝早くからカラスのギャング団がやって来て
食べ物が入ってないのにゴミの入った袋を破り、
あたり一面にゴミを撒き散らすからだ。

テント場から見える御岳

トカラ列島 旅行記 野宿しながら約一ヶ月かけて島々を巡った旅の話です!

昨日の午前中、ちょっとの時間だけ御岳の頂上付近が顔を出したが
それからはずっと厚い雲が掛かっている。 
それを見て安心する。 
へたに山がくっきり見えていたらもう一度山に登ってしまう。

午前8時前に安さんの家を訪ねる。
安さんの家は民宿をやっていて、弟さんは島の駐在員だった。
家にはお母さんがいて安さんのことを尋ねると昨夜帰ってきて朝早く漁に出たという。
なんとか作地温泉まで船で連れて行ってもらえないだろうかと頼むと
お母さんは船舶電話を使って安さんに連絡をとってくれた。
安さんが言うには作地の方は波が高くて船が着けられないということだった。
残念だが作地温泉行きは諦めた。


作地温泉に行ったことのある人にいろいろと聞いてみると
温泉が川のように流れ滝があり滝壷はそのまま露天風呂になっている。
ほかにも温泉が湧いている所があり、
その昔ヤマハが温泉プールを作った所も残っているらしい。

話を聴けば聴くほど行きたくなる。

そんな作地温泉があるのに島の人たちもなかなか行けないようだ。








十島村 パンフレットより


『藤井富伝物語』

藤井富伝、文政十年(1827年)十二月十五日、大島郡赤木名に出生。

明治九年(1876年)、五十歳の富伝は、かねてより思いを温めてきた、
文化十年(1813年)御岳噴火以来無人となっている諏訪之瀬島の開墾を
実行せんと欲し始めて島に渡る。
その後、幾多の曲折を経て、明治十七年同志六人とともに三たび来島す 。
開墾種植に努めるも、降灰と風災の害を被り、耕作実らず。
この三年間は野草海物を併食し、その命をつなぐ。
この間、持ち船も失くし、野草の毒で二人死亡。
ついには、島に残るは富伝ほか三人のみとなる。

幾多の苦難を克服し、十年後の明治二八年、牛、ブタ、ニワトリ、犬、猫ともども
三五戸の集落を形成するに至る。 
この年、大島郡島司笹森儀助(青森県出身)は島を訪れ、
富伝の開拓事業に深く感動し、その著「拾島状況録」に、
「土臥粗食、辛酸をなむる事数年、眼病再発して、今は殆んど明を失し、杖に依り歩行す
然るに性剛穀にして又活発なり。故に言語も亦快明なり。」と記す。

富伝は、明治三七年(1904年)二月二三日、自らの育ての島にてその生涯を閉じる。
享年七七歳であった。

9月29日 火曜日

朝は薄曇の空模様

今日は朝から前々日に歩いた海岸からのルートをさらに奥へ進めることにする。
道に目印を付ける為、海岸でナイロンロープを何本か拾い、
それをほぐしてズボンのベルトに結びつけた。
歩きながら要所要所の木に目印として結びつけるのだ。
そして一つだけ発泡スチロールの塊を拾い、
最初の沢から山に入ったところの木の枝にぶら下げる。
帰ってくるとき沢への降り口がわかりづらいからだ。

山へ入ってから、ほぐしたロープをほぼ等間隔で木に結んではみたが、
少し歩いて振り返ってみると目印は目立たなく少しも役立っていない。
まあ気休めにそのまま結んでいく。

それから二つ目の谷にさしかかるまで道に迷うし、
草が密生している場所では藪漕ぎに苦労してかなり時間をロスする。
一度歩いているところでこんなことじゃ先が思いやられる。

急登の草付き帯を登りきり今度は低木帯に入る。
ここまでは前々日に来た所だ。
低木帯に入っても急斜面は続き、草や木にしがみつきながら野獣のように吼えながら登った。
勢いで稜線に出たものの帰りにここを降りるのはちょっときつい。

次の谷は深く切れ込んでいてザイルが無いと危ない。
僕の進む道はこのまま稜線を上がり御岳へと向かうしかない。
稜線は歩きやすいが所々草が密生していて薮漕ぎをする。
小さなピークに立つと、この先には今まで歩いてきたような
低木帯の尾根が続きその上には御岳の火口から流れ出た溶岩が
パフェのチョコレートソースのように低木帯の上にかかっていた。

御岳本体も間近に見える。

ここまで来たら帰りは同じルートを戻らず溶岩帯を横切って
集落から延びているはずの登山道に出た方が楽そうだ。

ぽつりぽつりと雨が降ってきた。
溶岩帯に出た時には12時近くになってしまい、
日帰りのつもりなので作地温泉には行けそうもない。
今日は火口から続いている一番高い溶岩の尾根まで登って
それを下り作地温泉がある東海岸の方を見て戻ることにする。

ガリッガリッとキャラバンシューズが溶岩をかみ砕く。
予定の尾根まではまだかなりある。
ぽつりぽつりの雨が本降りになる前に早く登らなくては。
ここがどんな所かは、
富士山の5合目以上の斜面を想像してもらえればいいと思う。

目標の尾根の稜線に出ると期待していた東海岸は見えず
そこには荒涼たる溶岩帯広がり、この位置よりは低いが尾根が連なっていた。


あ〜、とため息一つ漏らし、もう少し行ってみようかと考えていると
にわかに強い風が吹き出し大粒の雨が降り出した。
これはまずいと思い、急いで引き返すがあっという間に
霧が降りてきて辺り一面を覆ってしまった。

何も見えなくなってしまった。

しかし、まだ楽観的でこのまま歩けば登山道にぶつかるだろうと
溶岩帯を横切りだした。
もう少し雨が強くなったらポンチョを着ようと思っていると
いきなりバケツをひっくり返したような雨が降り出した。
風も狂ったように吹き始め立って歩くことが出来なくなった。
早くポンチョを着てればよかったのにもう遅い。
全身びしょ濡れだ。
這いつくばって歩くが風は向かい風、
真正面からの叩きつける大粒の雨、顔面にビシバシ当たり
痛くて目を開けていられない。

這って歩くのも限界がきた。
あまりの風雨の強さに息することもままならず、
呼吸困難になってしまい倒れそうになる。
辺りには風雨を避けられるところはどこにもない。
仕方なく、風上に背を向けうずくまり、これからどうするか考える。

霧さえ晴れて視界が利けば風雨強くとも目標定めて頑張れるが、
これじゃ夢の中を彷徨う夢遊病者。

首に巻いたタオルを頬ッ被りする。
このままで待機しようとうずくまっていたが、
だんだん身体が冷えて寒くなってきた。
もう歩くしかないな。

下を向いて岩を掴みながら登山道に向けて歩き出した。
風から横を向いてしまうと、タオル越しだが耳に雨が当たり
鼓膜が破れそうだ。
いったいここはどこなのか、どれくらいの高さの所かさっぱりわからない。
遠目では歩きやすそうだった溶岩帯は実際歩いてみると
縦に大小様々な溝が走り歩きにくく、さらに溝の中を水が
勢いよく流れていてあちこち川になっていた。
それらを渡っていかなければならない。

このまま平行に歩って行くと傾斜がきつくなってきた。
危ないので少しづつ上に向かって歩く。
しばらく登ると尾根らしき所にあたり、割合なだらかなので降りてみることにする。
もしかするとこれが登山道かもしれない。
集落から双眼鏡で見た登山道のある尾根はこんな感じだった。
僕は半ば安堵の気持ちを持ちながら下った。

風と雨にあおられながら低木帯まで来ると、強烈だった風雨が嘘のようにおさまっている。

とここまでは良かったが、この先は密生した低木帯が続き、
人が通れるような所はなくしかもかなりの急斜面で
これ以上は降りることが出来ない。
どうやら登山道のある尾根ではなかったようだ。
このまま強行突破の藪漕ぎをしたら、草木に絡まり力尽きるだろう。
もし集落へ近づけても次は密生した大名竹があるし海岸には絶壁が待っている。

ここまで来たら登山道を見つけるしか生還できる道はない。
さっきまでの楽観的な気持ちは消えてしまい、
もしかしたら生きて帰れないんじゃないかという気持ちが膨らみ始める。

今更と思ったがポンチョを着る。
多少は暖かいかもしれない。
パンフレットの地図を見るが正確な居場所がわからない。
登山道のかなり近くまでは来ているはずだが、、、、、。

前に進むには強い風に吹き飛ばされないように、
溶岩帯に近い低木の中を横切ることにする。

思ったより下草の密生が凄く、地面は見えず足元はデコボコで
何度も深みにはまって足を取られる。
極めつけは草の中に隠れているクレパスのように
口を開いた沢だ。 幅は無いのに深く、底には水が轟々と流れている。

この作戦は失敗だ。

かなり体力を消耗してしまった。
この場でもうだめだと投げ出したら、即座に気を失い死ねそうだ。
僕は笑った。 恐怖、快感、欲望入り混じり、まだ死にたくない。

再び高度を上げて溶岩帯に出る。
風雨ともに強く、また這うように歩く。
「霧よ晴れてくれ!」と祈るがなかなか祈りは通じない。
斜面がきつくなり、更に高度を上げる。
びしょ濡れのズボンが足にまとわりついて上げるのがつらい。
いつまでたっても登山道に当たらない。
午後3時まではこのまま溶岩の中を横切ってみる。
それでも登山道が見つからなければ、藪漕ぎで玉砕するか、
沢を下って水といっしょに海まで下ろうか。
このまま日が暮れてしまえば寒さで死んでしまう。
とにかくもがきあがいてやる。


いつのまにか風が止んだ。
雨も小降りになった。
霧の世界の中で僕の足音が響いた。
どうやら風下側の山腹に廻ったらしい。

霧の中から人の背よりも大きな溶岩の塊がいくつも現れた。
それらは今にも転がり落ちてくるような不安定な姿だった。
インディージョーンズみたいな映画だったら間違いなく
僕めがけて転がり落ちてくるだろう。

僕は静かに歩いた。

こんな景色は下から双眼鏡で観察したかぎり見たことない。
行き過ぎたかな?
まだ午後3時前なのでもう少し歩くとあまりの急斜面で横切ることが出来なくなった。
ここで引き返す。
どこまで戻ればいいんだろう?
本当に疲れた、、、。
ふらふらと巨岩のある溶岩帯まで戻ると、
どこから飛んできたのか2羽のカラスが僕の回りを飛び始めた。
ここから溶岩帯を降りることにする。
2羽のカラスはついてくる。
近くの溶岩にとまっては“カアカアカアカア”と僕に向かって啼く。

僕が死ぬのを待っているのかな?

ボーッとして霧の中の溶岩帯を降りていくと、すうっと目の前の霧が消えて眼下に海が見えた。
なんとこの溶岩帯は海まで流れ落ちている。
ど、どこだここは?
行き過ぎたのは間違いない。

振り向けばあたり一面、霧だ。 じっと右斜面の上を睨みつけた。
頼むから少しでいいから見えてくれ!

しばらくして一瞬、深く立ち込めた霧が切れた。
はるか上に大きな尾根が二つ連なって見えた。
このまま霧は晴れてしまえばいいのに、
1分もしないうちに深く包まれてしまった。

神秘的な一瞬の出来事によって、僕は息を吹き返した。
まだまだ運には見放されていないようだ。
パンフレットの地図を見て居場所を確認する。
あれだけの溶岩が海まで流れ落ちているのはアカズミしかないだろう。
なんとそこは作地温泉のほぼ正反対の西海岸だ。

さっき見えた稜線まで登らなくてはならない。
げーっ、あの稜線までけっこうあるなあ。
時は午後3時半をまわっている。
あそこまで登ったからといって登山道が見つかるかわからないけど、
ここで死ぬよりいいや。

嫌だなあ〜倒れたら真っ先にカラスどもがやって来て
目の玉突っつかれて僕の死体はバラバラにされてしまうなんてさ。


緑一つ無い白と黒の非現実的世界の中を
独り黙って上へ上へ登っていると、ふと、
夢の中にいるんじゃないかと錯覚する。
目が覚めたらフトンの中だったなんてことだったらいいのに、、、、。

そんな気持ちも”カアカアカアカア”と啼きながらついてくる
カラスによってすぐに現実に戻され、どっと疲れが出る。

最初の尾根は何も調べずそのままパスして、奥の尾根一本に絞る。
奥の尾根の稜線にたどり着くと、雨は小降りだが強い風で
吹き飛ばされそうだ。
再び緊張感が増す。

僕はかがみこんで稜線の様子を見る。
稜線は決してなだらかといえないが、割と幅広く歩きやすそうだ。
しかし、霧に隠されたその先はどうなっているかわからない。
どうしようか? 行くしかないかな?
僕は自問自答して体を低くして歩き出した。

この強い風の中でもカラスはついて来ているのだろうか?
何となく啼き声が聴こえるような気もするが幻聴かもしれない。
ふと足元の溶岩に赤いものが付いていた。
よく見ると赤いペンキのようだ。
 
登山道?

それから注意して降りていくと今度は溶岩に
赤いペンキでが書いてあった。
「助かった・・・・・・・・・・」
僕は稜線をどんどん下った。
高度を下げるたびに霧が薄くなってきた。
視界も良くなりこの稜線のはるか下方に白い看板が立っているのが見えた。
あの看板はテントから見えるやつだ。
僕は感極まり激しく吼えた!


白い看板には標高四百五十メートルと書いてあった。
この辺から下は霧が晴れていて、眼下に牧場や集落が見える。
キリングフィールドという映画で、主人公が
キリングフィールドと化したカンボジアからタイへと
あらゆる困難を乗り越えやっとたどり着いた山から
赤十字の旗を立てたタイの難民収容所を
見つけた時の場面のようだ。

僕は眼下に見える集落に向かって何度も吼えた。

白い看板から少し下った辺りで溶岩帯は終わり登山道は森林帯に入る。
台風によって道は荒れているが一本道で迷うことはない。
膝が笑っている。
こんな時は出来る限りテンポよく駆け抜けたほうが楽だ。

登山道は牧場に突き当たり終了した。
針金で簡単に留めてある柵を開け牧場の中を通り抜けて集落に戻った。
この辺もかなり雨が降ったようだ。
学校のグランドも池のようになっている。
テントは大丈夫だろうか心配したが回りに深い溝を掘っていたので
思ったより中は濡れていなかった。

衣類を脱ぎ捨て、水を浴びて、洗濯して、食事して、一息ついて
本当に真っ暗にならないと活躍しない懐中電灯を片手に総代さんの家を訪ねる。
家には奥さんしかいなかったが、作地温泉まで船を出してくれる人がいないか相談する。
しかし今は海が荒れているのでほとんどの船が陸に上げられていて無理なんじゃないかなぁ、
安さんがいれば乗せて行ってくれるかもしれないのにねえと頬に手を当てて奥さんは言った。

安さんは諏訪之瀬島の若い漁師さんで中之島に避難したまま、
まだ帰ってきてないようだ。
そういえば中之島の漁師さんと話をしていた時に
原付に乗って通りかかって挨拶した人が諏訪之瀬島の
漁師だと言ってたからあの人が安さんだったのかな。

寝袋に入って眠ろうとするが神経が昂ぶり目が冴えている。
否応なしに頭の中では山での出来事が上映されている。
いろんな場面での行動の選択や最後の尾根で登山道が
見つからなかったとかを考えたら恐ろしかった。
本当に生きて戻れてよかった。

吐喝喇列島旅行記の目次

藤井富伝の墓は集落から程近い森の中にひっそり建っている。
草木が無ければきっと大海原が見渡せるだろうこの場所は、
空気の流れを感じないが、
決して澱んではなく、ここだけ神聖な空気に包まれているような感じがする。
僕は偉大なるこの開拓者に黙祷を捧げる。


このあと、ヒッピーと呼ばれる人たちの話を聞くために
集落の一番外れにある、長沢さんの家を訪ねることにする。
彼は諏訪之瀬島に残って暮らしているヒッピーと呼ばれる人たちの中でもっとも古株だということだ。

僕は長沢さん宅の玄関先で、
「こんにちは!」
と声を掛けるが中からは返事がない。
何度か声を掛けていると後ろから、
「はーい!」
と返事がした。
振り返ってみると、畑の中に野良着姿の女性が立っていた。
僕が大きく頭を下げ挨拶すると、
彼女は首に巻いた手拭いで顔を拭きながら会釈した。
会話するには少し距離があるので僕は畑の中に入っていった。

彼女に近づくにつれて、汗と泥にまみれているが顔立ちの整った美しい方だということが判った。

「こんにちは、旅行をしている者ですが、長沢さんでしょうか?」
「そうですけど、何か?」
「あの〜、バンヤンの事とか、昔の話を聞かせてもらえないかと思って来たんですが」
と言うと彼女は頷いて、
「今ちょっと手が離せないし、主人もいないんで、夜の7時頃に来てもらえれば大丈夫だと思うけど」
と言った。
僕はお願いしますと頭を下げ、名を名乗って午後7時にもう一度来ることを
約束して、この場を去った。

         10 11

9月30日 水曜日  晴天 

吐喝喇列島旅行記8ページ目

10月1日 木曜日 晴天

薄曇り、風強し。

朝、まだテントの中で寝ていると、誰かが車でやってきて回りで何かしている。
何だろう?と思いテントから顔を出すと男の人がトラックに材木を載せていた。

「おはようございます! もしかして、あの車を出すんですか?」

と指さしながら尋ねると、その男の人は笑いながらうなづいた。

側溝に落ちた軽自動車へ行ってみると
まだ酔っ払い男はボーッとした顔をして運転席に座っていた。
あのまま、朝を迎えたようだ。

バッテリーがあがっているため、エンジンがかからない。
材木を運んでいた人と僕とで車を持ち上げ側溝から出した。
すると、軽自動車はそのまま惰性で坂道を下っていった。

「あいつは無免許のくせして酔っ払い運転するからな」

と笑いながら言って、僕に会釈し自分の車に乗って走り去った。


午前8時半、昨夜の片付けをするためグランドに行く。
集会所の流しにビールのジョッキーを運び、洗う。
全部洗い終わった時にお疲れ様とビールをいただく。

時間が中途半端になってしまったので、今日は一日ゆっくりとする。

夕方に水浴びをするが結構きつくなってきた。

9月28日 月曜日

古道具 古賀
東京都小金井市関野町2−3−3
0120ー387−056
042−387−0567
 furudougukoga@yahoo.co.jp
東京都公安委員会 第308899403942

当店は桜の名所、小金井公園の近く、
五日市街道沿いで10数年、地道に商っています。
定休日・月曜日・不定休有

「 遭難 」

         10 11

次の日テント場から見えた御岳