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イルティッシュ号編

「坂の上の雲」に関連する史跡等の簡単な旅行記です。


<島根県江津市 イルティッシュ号編 : 2009年7月27日>

まずは、イルティッシュ号に関するエピソードから紹介しよう。

5月27日からの、対馬沖の戦いで流弾のために浸水甚だしく、航行不能となり、
5月28日午前10時ごろ、真島沖に姿を見せた。
日曜日の浜で遊んでいた子供の目に止まり、小さな漁村は大騒ぎになる。
兵隊は少年から老人まで幅広く、寒さと恐怖のあめにおののく姿に、
小船を出す者、肩を貸すもの、腰巻姿で木タライを引く老婆、
とそれぞれが見知らぬ土地で遭難した時と重なっていた。
夕方235名の全員を救助する。
浜で寄り木を集め炊き出しの雑炊をしたが、震えるばかりで口にするものはいなかった。
少年兵を人肌で暖める母親、焚き火の近くに連れて行く者と、
そこには対戦国というこだわりは微塵も感じられず、人と人との熱いものとなっていた。
俘虜は、学校、民家を分散して傷の手当てを受け、
翌日浜田へ全員移送され、取調べの後、船で佐世保へ移送された。

(以上は、和木公民館よりご提供いただいた資料から抜粋)

島根県江津市・・・あまり聞きなれ地名ではないでしょうか?
私の生まれ故郷。東西に細長い島根県の丁度真ん中あたりに位置する。
山陰本線JR江津駅から車で大体10〜15分の和木町に、イルティッシュ号の慰霊碑がある。

道路の歩道のところに立っているのが案内表示


その脇の小道路を入っていく。


1分もしないうちに、慰霊碑が見えてくる。



う〜ん、ボディ部分のロシア語は何て書いてあるか分かりません。


慰霊碑は、日本海に向かって建てられています。昭和34年6月に建立されたと書いてありました。



この慰霊碑から車で1〜2分のところの公民館に関係資料があるというので行ってみました。






「坂の上の雲」8巻の関連地図の「日本海海戦図1」に
特務船隊の「イルトイシ」というのが、「イルティッシュ号」のことです。

これがイルティッシュ号の船影。
(明治38年の投降時の写真で、和木の人が撮影)
1903年ドイツで建造され「ベリギア号」といいドイツ海軍の石炭船。
1904年にロシアがドイツより購入。15000トン、乗組員251人



右の隅にあるのが、真島。この沖の2海里のところで投降。



これが関連の資料群




左上が救命具、右上がホイッスル
左下が信号旗、右下が制服


そして、下が砲弾



その他にも、航海灯、銃、鉄兜、ミルク入れ等が展示されている。

下記が日本海海戦翌日(1905年 明治38年5月28日)の、大阪朝日新聞の号外


そして、その翌日の大阪毎日新聞の号外



実家の隣町にこのようなことがあったことは知らなかった。
09年4月に母から聞き早速、和木公民館に電話をした。
上記したが、「坂の上の雲」の付属資料にイルティッシュ号が見当たらない
というのが最大の関心事であった。
電話に出られた森崎様に、「イルトイシ」と書かれてあることを教えていただいた。
そして貴重な資料までをお送りいただいた。
その節は、本当に有難うございました。
やっと本日訪問し、お会いすることができました。

<おまけ編>

江津市から車で20分西に行くと浜田市があります。
先ほどのイルティッシュ号の乗り組員が移送されたところです。

幕末のころ、長州藩攻められ浜田城は落城しました。
村田蔵六という蘭学の医者が指令官となって攻めてきたのです。
司馬遼太郎さんの「花神」という小説で、村田蔵六が描かれています。

お城自体はありませんが、その跡地が、国道9号線沿いの
商工会議所を少し上がったところにあります。
浜田駅からタクシーを走らせても10分以内。

その中に、「浜田藩追懐の碑」が司馬遼太郎さん
の文章であります。




内容は右から


真ん中の部分



そして、最左の部分



碑に人影が写っていますが、青いジャンパーを着たのが長男(撮影者)
隣のスーツ姿が私。

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