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大連・旅順編A

「坂の上の雲」に関連する史跡等の簡単な旅行記です。


<中華人民共和国 大連・瀋陽・旅順編 : 2009年9月7日〜9月10日>

ロシア軍は、3セットの艦隊を持っていた。
ウラジオストック艦隊、バルチック艦隊、そして旅順艦隊。
その旅順艦隊の本拠地。

大連駅からバスで約40分、海が見えてきた。
右の出っ張った陸地の反対側が旅順港。


その途中、途中で山々が見える。これらの山の幾つかに要塞を築いていたんだな・・・
と想像をめぐらす。



旅順艦隊は、バルチック艦隊の合流を待つために、湾内からなかなか出ようとしない。
そのために、海軍から陸軍に、陸上から旅順港に停泊している艦艇を攻撃して
欲しいとの要請を行う。

これが旅順港。入り江の幅が273メーター
出てこないなら「封鎖」ということで作戦を2度ばかり行うが、失敗する(「坂の上の雲」 3巻旅順口)



その要請を受けて、陸軍は乃木希介を司令長官に旅順要塞の攻撃を行う。

その激戦地が203高地。


標高203メートルなので、203高地と言う。ガイドさんが言うには、もともと206メートルだったが
砲撃が重ねられ、削られて3メートル低くなって203メートルになったらしい。




半年以上もかかって陥落しない乃木軍の采配に、業を煮やした児玉源太郎は
一時、乃木の指揮権を借用し、攻撃計画を「近くから、より多く砲撃する」という
コンセプトのもと変更を要求した。
 1)重砲隊の陣地を24時間以内に、火石嶺から高崎山に移動
 2)28センチ砲を、1昼夜ごと15分を間して連続砲撃
 3)軍指令を柳樹房から水師営に移動
(「坂の上の雲」 5巻 203高地)

確かに28センチありそう


「日本式280ミリメートル榴弾砲
203高地争奪戦で、日本軍は口径の異なる大砲を60台余り使用して、
高地に対して狂気じみた無差別攻撃を加え、全部で1万1千発以上の砲弾を撃ったが、
そのうちに、280ミリメートル榴弾砲が2254発あった。
当該大砲は本体の重さが10.753トン 砲弾の重さが217キロで、射程が7800メートルだった。」
と説明には書かれている。


その重砲隊を移動した高崎山を一所懸命探していた。
そしたら、親切な現地の案内人が、
見えるところまで連れて行ってくれて、指差して教えてくれ、
そして地面に「164高地」と書いて教えてくれた。

これが高崎山みたい


そして、これが椅子山と教えられる

児玉源太郎が203高地の様子を見るために、
近くに丘に参謀を連れて登りつつあるなか、
この椅子山からロシア軍の砲弾が撃たれ前後に落下した
とのこと
(坂の上の雲 5巻 203高地)

児玉源太郎が、登った丘は最後までわからなかった(残念)

児玉は、その丘に登り、203高地の頂上の一角を死守している
百人足らずの兵の姿に児玉には感動した。

そして、義務的にこの上まで登らされたように、ぼんやりしている
(責任を感じていない)参謀に怒声に浴びせた。

「あれを見て、心を動かさぬやつは人間ではない」
「なにをぼやぼやと観戦しちょる。おぬしは外国の観戦武官か」
(坂の上の雲 5巻203高地)

東鶏冠山。コンドラチェンコ少将が戦死し、これを機にロシア軍の防戦力が低下していく。




頂上には、爾霊山(203)と書かれた碑が建立されている。

乃木希典の漢詩からとった名。
それ以外に「鉄血山」「旅順富士」「児玉山」という案があったそうな。

帰り間際に、現地の案内役の人が私のところに来て、
「旅順市街および戦跡案内地図」をくれた。


左が現地の案内役の人,右がツアーガイドの超さん



そして、旅順艦隊の撃沈を確認するために東郷自ら確認に出向いた。
老虎尾半島の付け根の部分にある城頭山のふもとに、最後の一隻が
沈んでいるのを確認した。(「坂の上の雲」 5巻海涛)

これが、老虎尾半島。城頭山は・・・一番右の山かな???



そして、203高地陥落後、敵要塞司令長官のステッセルと乃木が
会見した場所が、「水師営」。


これが水師営の前の通り


バスから降りて撮影。


入り口には、「会見所」と書かれてある。


これが、会見場所




入って左の側の部屋が会見場所
これが会見に使われた机。
実は、机がなく、野戦病院のベッドを机代わりにしたとのこと。

右側に日本、左側にロシアと座席したとのこと

「椅子の高さが違う・・」と係りの人が説明をしてくれる。
よく見てみると、日本側(右側)の方が、少し椅子が高かった。



明治帝の「武士の名誉を保たむべきことを望ませらる」
という電文をもとに、この会談では、ステッセルとその随員に帯刀を許した。

入って右側はいろいろな資料が展示してあった。
資料の一部を撮影してきました。









「包帯所の跡
この地は、明治37年10月26日より38年1月2に至る間、数回にわたり
第一師団衛生隊の包帯書を開設したる所にして、会見所は即ちその手術室なり・・・」
と石碑に書いてある。



旅順における損害は、
ロシア軍の戦闘員4万5千人、このうち死傷者は1万8千人余り、死者2,3千人
日本軍の兵力10万人。 そのうち死傷者60,212人、死者は15,400人余り。
という凄惨な戦いがこの旅順で行われた。