東京 子規・海軍編
「坂の上の雲」に関連する史跡等の簡単な旅行記です。
2010年8月27日&29日
<海軍発祥の地、海軍兵学寮跡>
東京都中央区築地。
築地市場中をとおって行くと
小さな神社が見えてきました。
この場所は、江戸時代は松平定信公庭園跡で、明治維新後は海軍用地となり、
境内にある「旗山」の碑は日本海軍発祥の地のゆかりを記ししていると・・・・
「旗山」の石碑の下の部分には、
明治2年海軍廳衛を此の地に置く。
5年本省設立後、海軍卿旗を此の丘陵に樹つ、世人呼んで旗山と称す。
此地や実に海軍経営の根基を為せり、蓋し其の発祥の地と謂つべし
と彫られていた。
この旗山から、徒歩で5分も行けば国立がん研究センターの建物が見える。
その駐車場の入口のところに
右の石碑は「海軍軍医学校」と彫られてあった。
そして左の石碑には「海軍兵学寮跡」と
「真之は、海軍に入ることを決意した。
−兄さん、海軍兵学寮ちゅうのはどこにあるぞな。
というほど、海軍知識にはうとかった。そもそも海軍兵学寮ということすらまちがっている。
海軍士官の養成学校がそういうなまえだったのは明治9年までのことで、
その後は「海軍兵学校」という名前にかわっている。
築地にあった。」
坂の上の雲 1巻 (海軍兵学校)
真之は、東大予備門を退学し、明治19年(1886年)海軍兵学校に入学しました。
<正岡子規記念球場>
上野公園の西郷さんの銅像を過ぎていくと、野球場が見えてきます。
正岡子規記念球場。
ちょうど草野球をしていました。
外野が定位置につくと、3メートルくらでフェンスがあり、小さなかわいらしい球場でした。
バックネット裏のところには句碑と説明がありましたr。
「明治20年ごろからベースボールに熱中し、仲間を組んではほうぼうで試合をしたりした。
ちなみにベースボールに、
「野球」
という日本語をあたえたのはかれであった」
坂の上の雲 1巻 (ほととぎす)
句碑には、
「春風や まりを投げたき 草の原」と書かれてありました。
上野恩賜公園開園式典130周年を記念して「正岡子規記念球場」の愛称がついたようです。
明治19年から23年頃にかけて上野公園内で野球を楽しんでいた。
子規の随筆「筆まかせ」には明治23年3月21日午後に上野公園博物館横空地で
試合を行ったことが記されており、子規はこのとき捕手であった。
と説明されています。
<子規庵>
日暮里駅から、歩いて10分くらいのところにありました。
「このころ子規は、近所へ越した。
さきの家の番地は上根岸88番地であったが、こんどは、82番地であった。
ひっこしの理由は、「日本」の社長陸羯南が、
このころ(明治27年1月)給料を30円にあげてくれたからで、
かれにとってついのすみかになったこの家の家賃は、はじめが4円、やがて4円50銭になった。
家は平屋である。」
坂の上の雲 2巻 (根岸)
母の八重、妹のお律と一緒にくらしていた。
残念ながら、休館日で中に入ることができませんでした。
あきらめて、日暮里駅に帰ろうとする途中に、お団子屋さんが・・・
明治32年10月2日発行の新聞「日本」の掲載 紀行文で、子規が団子について書いたそうです。
ここに石橋ありて芋坂団子の店あり、繁昌いつに変わらず。
店の内には十人ばかり腰掛けて食い居り、
店の外には女二人みて団子のできるのを待つ。
根岸に琴の鳴らぬ日はありとも、此の店に人の待たぬ時はあらじ、
戯れに俚歌作る。
「根岸名物芋坂団子売りきれもうし候の笹の雪」
子規が食べた団子ならば・・・・と2本いただきました。
<東郷神社>
原宿の駅を降り、竹下通りの隣に東郷神社があった。
竹下通りは若者の活気にあふれているいる。
その隣は、閑静な神社が、別世界のような感じだった。
文字通り、東郷神社は東郷平八郎が祭ってあります。
東郷平八郎。
弘化4年(1847年)薩摩藩士として生まれ、幕末には薩摩藩の海軍に入ります。
日清・日露戦争と従軍し、日露戦争では、日本連合艦隊の司令長官として日本海海戦では
完全な勝利をおさめます。
明治26年の山本権兵衛による海軍幹部の大整理のときに、
「海軍大佐東郷平八郎」
という名前も、整理されるべきリストにのぼっていた。
東郷は英国の商船学校の出であり、国際法についてはなかなかの造詣がある
といわれていたが、人柄が無口ななせいか、その戦術能力については良否いずれの評判もなかった。
(略)
浪速の艦長になり日清戦争に参加した。
この東郷が、開戦早々、清国陸兵を満載した英国汽船高陞号を撃沈し、国際問題をひき起こしてた・・
(略)
権兵衛はこのとき、東郷の資質にある周到性と決断力と、そしてなりよりもその従順さを大きく評価したらしい。
坂の上の雲 3巻 (権兵衛のこと)
「海軍省人事局が、その戦いの人事についての事務局になっている。
まっさきに、艦隊作戦のすべてを36歳の少佐秋山真之にやらせることを決定した。
同時に、司令長官を決定した。司令長官は舞鶴鎮守府長官という閑職にある中将東郷平八郎を抜擢することであった。」
坂の上の雲 3巻 (風雲)
中を入っていくと、東郷記念館が見える。結婚式が行われいた。
これが東郷神社
その敷地の中に、、海軍経理学校正門敷石がありました。
説明板では、
明治7年10月、芝山内天神谷に設けられた海軍会計学舎は
幾度かその名称を変え明治40年に海軍経理学校となった。
この間校舎も数度位置を変えて、
明治21年に築地の松平楽翁公邸の浴恩園跡に移り、
更に昭和7年同じ築地の隅田川河畔に移築された。
そして昭和20年に幕と閉じたと・・・
とありました。
海軍経理学校まであったとは知りませんでした。
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