<無私の心>
会社での、上級幹部の公私混同などはその最たるものである。
社長の、遠方の家族に会うという旅行に、ビジネスを少し付け加えて会社の出張
したり。
家族との食事が経費に計上されていたり。
総務の担当に自分の買い物をお願いしたり。
この手の公私混同の例はことかかない。
このような公私混同を社員が知ったら、
冬の最中に、お客様を駆けずり回ってもらってきた注文や、
夏の暑い日に工場で汗びっしょりになって
工場で製造している商品は、一体何のためなんだ、
理想を現実にするための努力ではなかったのか?
俺達は、社長や専務のために仕事していたのか?
アホらしくてやってられない。
と思うのは人情であろう。
重要課題にもかかわらず、リーダーが率先して陣頭指揮をする
場面でありながら、転勤にいろいろと理由を付けて拒んでみたり。
重要案件のミーティングにリーダーが私用を理由に欠席したり。
私心が現れる場面が見え隠れしはじめると、
そうなんだ、俺もいろいろと大切な用事あるし、
と簡単にやんごとなき理由はいくらでもつけることができる。
それが暗黙のうちに許されるようになり、
そしてその結果、リーダーからの命令系統は確実に弱くなっていく。
「ノーブレス・オブリージュ」すなわち、直訳すると「高貴な義務」となる。
私心を無くし、自ら献身的な行動をとるということ。
これが人の上に立つ者の義務であり、
組織を率いる原動力の一つなるのである。
中小企業はそのほとんどが、息子が会社に入社する。
そして血縁関係のない社員と比較して猛スピードで出世する。
そして数年後にナンバー2の地位に付く。
一般社員から見るとうらやましいくらいのスピード出世である。
しかしながらその一方、大きな悩みを持っている息子もいる。
それは、親の七光りで出世していると自ら認識し、
自分の実力のみでこの地位を獲得できていなことが分かっている。
社長の息子だから当たり前と、この問題意識すら持たないのは、
論外である。この時点で失格である。
何とか自分も実力のあるところを皆に認識してもらいたい、
そして社長の息子で大丈夫だと思ってもらいたい。
と思うのである。
そして、人一倍、懸命に努力するものの、
なかなか社員が認めてくれない、
ついてきてくれない。
それは「自分が認められたい」という私心が、
かれの行動・言動のなかに垣間見られるのである。
「会社が良くなればいい」
「社員が生き生きと仕事してくれればいい」
と無私の状態になったとき、
社員が彼を本物のリーダーとして担ぎあげてくれるのである。
私心を捨て、無私になり、目標に情熱をもって取り組むとき、
人は動きだすのである。
無私の必要なもうひとつ理由としては、
物事を判断したり、検討したりするときに、
最良の方法を導きだせない可能性がある。
その私心が邪魔になり・判断を狂わせ・判断を鈍らせるのである。
高級幹部は「公器の府」であることを忘れてはならない。
共感できる理想をもつ人が、
自分以上の情熱を注ぎ、
その達成に励んでいることを感じるからこそ、
その人をリーダーとして支え、
自分もその理想の獲得に協力しようと努力するのである。
「理想」「情熱」「私心の無さ」が人を動かす原動力なのである。
その理想の純度が低く「私心で濁っていたり」、
その理想を達成するための行動の中に「私心」というものを見ると、
リーダーそのものに不信感を抱きはじめるようになる。
部下がついてこなくなる。
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