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子規庵他

「坂の上の雲」に関連する史跡等の簡単な旅行記です。


<愛媛県松山市  2009年12月5日>

松山の人

ガイドマップを参考に、子規の誕生の地を探し始めた。
なかなか見つからない。

消防団のおじさんなら知っているだろうと聞いてみたものの
「いや〜、この辺には・・・、聞いたことないですね・・」

地図のポイントあたりを何度も行ったり来たりを繰り返し・・諦めることにし
次のサイトに向かうことにした。

さっきの消防団のおじさんにすれ違った
「見つかりませんでしたわ・・・」
と挨拶して・・・・

片道2車線の大きな通りを渡って、100メートルも歩いただろうか・・・
その消防団のおじさんが追いかけてきた。

「ありゃあ、地図が違うで、子規の誕生の場所はな・・・」
と教えてくれた。

信じられない親切・・・、今時、わざわざ、追いかけて教えてくれる???

実は、挨拶した時、おじさんが電話しているのを見てその予感が私にはあった。

というのは、今年の8月にも松山に来た時、「坂の上の雲」ミュージアムの付近に
車を止めて、自転車に乗っている若い女性に、ミュージアムの方向を教えてもらった。
その時も、1ブロック以上歩いているにもかかわらず、追いかけてきてくれて、
丁寧に教えてくれた。

このときも、「信じられない、何と親切な・・・」と驚いたことを鮮明に記憶していた。

2度も・・・、無茶苦茶親切!!

愚陀仏庵跡を探すのも苦労した。途中で雨が降ってきて、昼食と、「跡」を教えてくれることを目的に
カフェで昼食をとった。店員の女の子に場所を聞くと・・・、他の店員の子も・・、さらにお母さんらしき
人も来て、「あそこだ、ここだ・・・」と・・・。
結果としては、目的の「愚陀仏庵跡」は自力で見つけたものの、
予定以外の「きとや旅館跡」「第52国立銀行跡」「大原観山住居跡」を見つけることができた。

伊予・松山の人の親切心に感動した。
いろいろとお世話になりました。
消防団のおじさん、自転車の女性の方、お名前も住所もわかりません。
この場を借りて、お礼申し上げます。有難うございました。

子規誕生地跡

ということで、迷い、迷い、たどり着いた子規の誕生地跡です。
松山市駅から、お城み向かうアーケード商店街の中にありました。

  

近代文学史上大きな足跡を残した正岡子規は、慶應3年(1867年)9月17日、この地に生まれ、東京根岸で35年の生涯を閉じた。子規の本名は常規(つねのり)であるが、近親者は生涯を通じて「のぼさん」と呼んだ。
生家は、東西の道路の南側にオロ垣(竹の枯れ枝)を結い、垣の内にサンゴ樹の並んだ家であったという。

と説明文には書いてあった。



子規堂 

松山市駅から徒歩で2〜3分くらいのところに子規堂がありました。
大正15年に正岡家旧宅の建材を用いて作られたましたが、
その後、昭和8年の火災、昭和20年の空襲で焼け、昭和21年に現在のものが建築されました。

入口のから撮影。
右は、「子規居士と鳴雪翁の居たまへる 伊予の御寺の 秋の夕暮」与謝野晶子と書かれています。
  


人一倍疲れやすいからだをもっていながら明治20年ごろからベースボールに熱中し、
仲間を組んでほうぼうで試合をした。ちなみにベースボールに
「野球」
という日本語を与えたのはかれであった、と河東碧梧桐などはのちしきりに書いているが、
そうではなく子規と一高の同窓の中馬庚だったともいわれている。

(「坂の上の雲」 2巻 ほととぎす )

左は「子規の野球の碑」
  

子規庵の入口


入口を入って、左の側に子規の勉強部屋がある。


いろいろな展示物があるが、その中で
よくぞここまで・・・・と思ったのが、下記の写真。
秋山真之が子規に贈った羽根布団の生地までが展示されていた。
  

正面の左に墓地があり、子規埋髪塔、正岡家累代のお墓があります。



子規の埋髪塔                     正岡家累代のお墓
  

末広学校・子規家墓地跡 

正岡子規のばあいは、最初末広学校というものに入った。
末広町の法竜寺という寺の本堂が校舎で、
寺子屋とかわらなかった。

末広学校は子規が入学して一年たらずで智環学校という呼称にかわった。

(「坂の上の雲」 1巻 真之 )

子規庵からすぐのところにあった。道端にポツンと石碑がある。
写真を写しわすれたが、奥にお寺を見ることができた。
 

子規母堂令妹住居跡

当時、子規の家はべつなところに移っている。
旧宅とおなじく中ノ川沿いではある。
その川筋(正確には川というより溝だが)を一丁ばかり西へくだると、通称、
「興禅寺あと」
という一角がある。そこに母方の実家の大原家(加藤恒忠の生家)の屋敷がある。
大原家では子規の療養のためとおもい、その屋敷地に閑静な小家屋をたててくれていた。

(「坂の上の雲」 1巻 ほととぎす)

子規が東京の予備門へ旅立った後、明治21(1888)年子規邸は移った、
正岡家が上京する明治25(1892)年11月まで、母・妹はここに住んだ。

まさか、片側3車線の中央分離帯のところにあるとは思わなかった。
  

自動車が切れるのを待って、待って自動車に気をつけながら確認した。
ちょっと危険!!

 

中ノ川が中央分離帯となっている。


子規旧邸跡

子規の家は、子規がうまれた年に湊町4丁目1番地にかわっている。
市内ながら灌漑用の小川が流れている。川幅2メートルほどで、中ノ川といい、
石手川のえだ川であり、水が飲めるほどうつくしい。
子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映し、東側に土塀がつづき、表門がある。
屋敷の広さは180坪ほどであった。

(「坂の上の雲」 2巻 真之 )

子規母堂・令妹住居跡からさらに1ブロックくらい進むと、
同じく中央分離帯のところに発見した。




右は子規の句碑 「くれないの 梅散るなへに故郷に つくしみにし春し思ほゆ」と彫られている

     

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