愚陀仏庵etc
「坂の上の雲」に関連する史跡等の簡単な旅行記です。
<愛媛県松山市 : 2010年12月5日>
三越の裏あたりの「愚陀仏庵跡」を探そうとするが、なかなか見つからない。
途中雨も降ってきて、珈琲ショップで雨宿り。
そこで、場所を聞くもわからない。うろちょろ歩きまわりました。
その途中で案内マップになかった「きどや旅館跡」、「第52国立銀行跡」「大原大観住居跡」
に巡り会えました。
きどや旅館跡
すでに秋山家は、松山にない。かれの父の八十九の死後、屋敷をひきはらって東京の
好古の家に移ってしまっていたから、宿をとらねばならなかった。
宿は、三番町の城戸屋旅館にきめた。
偶然ながらこの宿は、漱石が松山中学校に赴任してきて最初にとまった宿であった。
( 「坂の上の雲」2巻 須磨の灯 )
案内版には
明治28年(1895)年、江田島の海軍兵学校にいた秋山真之が・・・・
と書かれてあるが、
海軍兵学校は1890年に首席で真之は卒業しており、
小説(「坂の上の雲」)では1895年に日清戦争を終えて、「筑紫」が呉に入港したときに
松山に帰ったとなっている。
第52国立銀行跡
明治11(1878年)に誕生した銀行で、
設立にあったては旧松山藩士の小林信近が初代頭取となり、
正岡子規の叔父の大原恒徳も大きく関与し支配人も勤めている。
恒徳は幼くして正岡家を継いだ子規の後見人として、
常に子規が頼りにした相談相手であった。
と説明文には書いてある。
家禄奉還金千二百円とうのは、未亡人の母親が実家の大原家に
あずけ、大原家はそれを伊予で設立された第五十二銀行にあずけ、さらにその一部を
同銀行の株にしてくれた。正岡家はそれをすこしづつひきだして生活費にあててきた。
それでもう二十年になる。家族が松山をひきはらって東京に出てきたときには、ほどんど底を
ついていたであろう。
(「坂の上の雲」 2巻 日清戦争)
とぎや旅館のあたりをうろうろしていると、見つけた。
いまは下記の石碑が残っている。
大原観山住居跡
子規の母方の祖父は大原観山という旧松山藩随一の学者でながく藩儒をつとめていたが、
このひとが大の西洋ぎらいで、自分もちょんまげのまま生涯を通し、初孫の子規にもまげを切らさず
外出には脇差一本を帯びさせた。
( 「坂の上の雲」 1巻 真之 )
松山中学・勝山学校跡
子規は(末広学校)入学一年足らずで勝山小学校に移った。
これとおなじ時期、秋山真之も勝山に移ってきた。
真之はそれまでのあいだ、近藤元修の塾で学んでいたが、
近藤先生から推薦されて勝山に入った。
子規もそうであったが真之も小学校に入ってからも漢学塾をやめず、
二通りの教育をうけていた。
(「坂の上の雲」 1巻 真之 )
現在その跡地は、NTTのビルが建っていました。
その跡地の前から松山城が、そして県庁が
愚陀仏庵跡
夏目漱石が松山中学校の英語教師としてこの(1985年)四月に赴任してきており、
その下宿が二番町の二番地にある。上野という家の離れ家であった。
漱石はその二階の二間にいた。子規はその階下の二間をかりることにしてひっこした。
子規はこの下宿に
「愚陀仏庵」という庵号をつけた。
( 「坂の上の雲」2巻 須磨の灯 )
なかなか見つからなかった愚陀仏庵跡が・・・見つかった。
駐車場の入口に、碑と案内版があるのみ・・・
「夏目漱石○○愚陀仏庵跡」と書かれていのだか、
○○の2文字が読めませんでした。
愚陀仏庵(復元)
そして復元された愚陀仏庵が、坂の上の雲ミュージアムを
登ったところにありました。
中に電気がついています。
俳句の会でもやっているみたいです。
中から声が聞こえてきました。
縁側には10人くらいの靴がおかれてありました。
萬翠荘
松山藩主の子孫にあたる久松定謨(さだこと)がフランスのサンシール陸軍士官学校に入学する。
その輔導役としてフランスにお供せよと、家令(家老)の藤野漸(すすむ)から打診を受ける。
好古にとっては、陸軍自体がフランス式からプロシア式に転換しようとしている最中のことであった。
好古はやむをえなかった。先祖代々禄を食んできた恩というものが旧藩士にはある。
「渡仏します」
と、無造作にいった。いった瞬間、陸軍における栄達をあきらめた。
(「坂の上の雲」 1巻 海軍兵学校)
その久松定謨(さだこと)の別邸。
フランス生活の長かったためか、フランス風の建築になっている。
愚陀仏庵のそばにある。
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