好古・ロシア人墓地
「坂の上の雲」に関連する史跡等の簡単な旅行記です。
<愛媛県松山市 2010年12月5日>
ロシア人墓地
この当時の日本政府は日本が未開国ではないことを世界に知ってもらいたいという
外交上の理由もあって、戦時捕虜のとりあつかいについては国際法の優等生であった。
ロシア捕虜をとびきり優しくとりあつかったというよりむしろ優遇した。
その収容所は各地にあったが、松山がもっとも有名であり、戦線にいるロシア兵にも
よく知られていて、かれらは投降するということばをマツヤマというまでになり、
「マツヤマ、マツヤマ」
と連呼して日本軍陣地へ走ってきたりした。
(「坂の上の雲」 7巻 会戦)
日露戦争当時全国に29箇所の捕虜施設があった。そのうちのひとつ。
マツヤマには多いときで4千人を収容していた。
道後の温泉に行けたり、自転車レースをやったりと・・・
国際法の遵守という理由もあると思うが、日本人のもつ「惻隠の情」という
のもあるのかな・・・・と思いをめぐらせた。
松山に送還される途中および施設で亡くなったのは98人。
一人一人のお墓が建立されている。
石碑には「露軍歩兵卒○○の墓」と日本語で彫られている。
そして前左の黒板には、名前と、死亡年月日が、ロシア語と日本語で書いてあり、
前右のプレートには、ロシア語で階級と名前と亡くなった日が彫られてある。
異国の地で亡くなった軍人の遺族がこのお墓を見たときに、
どれほど心を打たれるだろうか・・・・・
一方、シベリアの抑留のことが頭をよぎった。
明治と昭和という時代の違いなのか?
と考えたが、それよりもこの時代の日本人の精神に
尊敬の念を抱くいた。
墓地の入口には、大きなワリシー・ボイスマン大佐の
お墓と胸像がありました。
秋山好古の墓
好古の意識は四十度ちかい高熱のなかにただよっていた。
かれは数日うわごとを言いつづけた。
すべて日露戦争当時のことばかりであり、かれに魂魄はかれをくるしめた満州の戦野をさまよいつづけているようであった。臨終近くなったとき、「鉄嶺」という地名がしきりに出た。やがて、
「奉天へ。−」
と、うめくように叫び、昭和5年11月4日午後7時10分に没した。
(「坂の上の雲」 8巻 雨の坂 )
道後温泉の旅館街のから「道案内」に従い、少し山に向かって登っていったが
通りすぎてしまっていた。登りのでは影にかくれて墓地が見えなず、通りすぎてしまった。
引き返すと、駐車場がのそばに墓地が見えてきた
陸軍大将の墓??? と疑ったほど、写真にあるようにシンプルというか、質素な墓で
かれの生き方がお墓にも現れているような気がした。
石手寺
柳原極堂という俳句熱心の若者がある日「愚陀仏庵」にたずねてくると、
「ええとこへきた。石手寺まで散歩しよう」
(略)石手寺まで往復4キロはあるであろう。からだに障らぬかと不安だったが、
当の子規は平気で、途中あたりの景色をたのしげにながめながら歩いた。
途中、3、40句の俳句をつくった。
石手寺に入り、大師堂の縁側で腰をおろしてしばらく息をいれていたとき、
足もとにたれがすてたか、半紙大ほどのおみくじが風にうごいていた。
子規はそれをひろいあげてじっとながめた。横から極堂がのぞきこんでみると、
「24番凶」
とある。そのなかに「病事は長引かん。命には障りなし」と刷られていた。
(「坂の上の雲」 2巻 須磨の灯 )
明治28年9月20日の日清戦争の従軍記者として帰ってきたときのことです。
好古のお墓から、来るまで5分くらいのところにありました。
お遍路さんも沢山お参りされていました。
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