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好古・真之像

「坂の上の雲」に関連する史跡等の簡単な旅行記です。


<愛媛県松山市  秋山好古・真之銅像>

三津浜港から、車で位分くらい松山観光港に向かって行くと、梅津寺駅の手前の左側に
兄弟の銅像があります。

まずは、好古の銅像が小高い岡に建てられています。
  

松山藩士秋山久敬の三男として松山市中歩行町に生まれる。
海軍軍人の秋山真之の実兄。
明治10年陸軍士官学校、16年陸軍大学を経て騎兵科を志す。
20年フランスへ留学。
日清戦争では、騎兵第一大隊長、後に騎兵学校長となり、明治陸軍の騎兵科を「戦略機動集団の騎兵」として強化発展させ、騎兵の父と仰がれた。
日露戦争では、騎兵第一旅団長となり、世界最強のコサック騎兵と奉天会戦で戦い、敵の退路をおさえる陸戦最後のダメ押しに大功があった。第一及び近衛師団長を経て、大正5年大将となった。
朝鮮軍司令官、教育総監、軍事参謀官と陸軍の要職をつめた。その後乞われて北予中学(現松山北高)の校長となり、後進の育英に尽力した・・・・

と右の説明文には書いてあります。

   

銅像の後ろから・・・瀬戸内海を見ています。



そして、真之の銅像は・・・・案内板に従って・・・
好古の銅像から、4〜5分山を登ったところにあります。





松山藩士秋山久敬の五男として松山市中歩行町に生まれる。
好古は実兄。
15歳で上京し、親友の正岡子規と下宿した。その後、明治19年海軍兵学校に入学し、
同校を首席卒業。 日清戦争を経て米国に留学、マハン戦術(近代米国海軍戦術)を究めた。
日露戦争で連合艦隊長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍。日本海海戦ではバルチック艦隊を迎え、伊予水軍デンライともいわれる「乙字戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回で敵艦隊を撃滅し、
戦局の大勢を決した。なお、この時掲げたZ旗の「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮闘努力セヨ」の文は、真之の作である。
大正6年中将に進んだが、翌年病死、
この像は、石手寺境内にあったものを昭和43年9月に移転した。

と右の説明文には書いてあります。




三笠のレリーフかな??           「智謀如湧」元帥伯爵東郷平八郎書
  

真之の銅像に向かって左に碑があります。

正面には
「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直に出動、之を撃滅せんとす。 本日天気晴朗なれども波高し」
向かって右面には 「梅が香や おまへとあしの 子規真之」
向かって左面には 「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮闘努力せよ」

と書いてありました。

     

真之の銅像のところから、見下ろした瀬戸内海の風景。


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